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who is in (awareness inetnsive)・公案禅・瞑想

2015年10月24日 (土)

武道とセラピーをつなぐもの3、(8つの体捌き)


その体捌きのことを、


気功ですか?

と、聞かれたら、はい、と、答える。

瞑想ですか?

と、聞かれたら、はい、と、答える。

ダンスのようなものですね?

と、聞かれたら、はい、と、答える。

形だけで意味がないですよね。

と、聞かれたら、はい、と、答える。

全ての動きが包含されてすごいですね。

と、聞かれたら、はい、と、答える。

全て正解であり、

全て誤りだ。

それは考え方によって変わる。

ダイヤモンドにもなるし、

ただの石ころにもなる。


なにかのセラピーはやりすぎると、

自己のエネルギーを消費つくしてしまうという。


あるセラピーは宇宙からのエネルギーを活用しているから、

無限であるという。


考え方で同じセラピーでも180度違う。


そして実際その考え方の通りになる。


考え方は100人百様だ。


よくよく考え抜いて矛盾のない一貫性のある考え方を構築したとき、

大自信がつく。(単なる自信ではない。)


大概、一貫性のある考え方とは、

自分だけに都合のいいものではなく、普遍的な宇宙の理に照らし合わせて

辻つまが合致したものだ。


だから、そういう人は宇宙のことを語りだす。


そういうものを会得するために、

ちゃんと教えている武道を習うことはとても有効だ。

そこでは、何かを伝えるために主催者は

ある特別な意識状態の場を作らなければならない。

逆にそれを作れない人は、主催者になってはいけない。


そして、その特別な意識の場がベースとなって、

ある質感が伝わる。

そのために、どんなに遠くてもみんな稽古にくるのだ。


セラピーを教える場合も同様だ。


僕はその特別な意識のことを、

瞑想的質感と読んでいる。


それなしに、武道もセラピーもありえない。

その質感の方向性を指し示されることなく、

合気道で言えば、正面うち入身投げを100万回繰り返しても

全く進歩しない。

セラピストが何万人クライアントとのセッションを経験しても同様だ。

同じこところをクルクル回っているだけになる。


この瞑想的質感を伝えるツールとして、

数多ある○○瞑想や○○気功があるだけなのだ。


そして8つの体捌きがある


よく、瞑想は○○瞑想でなければならない、、というような

マストの表現をつかう集団もいるがその段階でとても洗脳的で違和感を感じる。

経験上いいかもしれない、、、というくらいなものだ。


繰り返しだが、ただのツールでしかないからだ。


そういうことを俯瞰的に理解して、

学ばなくいてはいけないのだと思う。

2015年10月19日 (月)

武道とセラピーをつなぐもの2 + 本日の稽古ご報告


現象の背景には必ず理がある。

ただ、それは、本当に正しい理なのか。


見えないものは感じるしかない。

その感じ方は、人それぞれの持つ物語に左右される。


突拍子な例えになるかもしれないが、


日本には、キョンシーはいないし、

ヨーロッパには鬼はいない。

同様に、中国に足のない幽霊はいない。

それぞれの民族が持つ文化という物語がある故なのだ。


何が言いたいのか。


つまり、数多ある世のセラピーが

目に見えないものを感じて表現している場合、

間違いなく

開発した人とそれを受け継いだ人たちが

よってたかって物語をつくっている場合がある。


きっと、その物語は、効果が出たので正しいと主張するだろう。

でも、そこに交絡因子はないのか、


  ↓↓(参考記事)

http://cranioaiki.cocolog-nifty.com/blog/2014/06/post-c902.html

中心帰納でおこる現象の背景にある理を探求すればするほど、

分かることがある。

では、言いづらいことを言ってしまおう。

クラニオセイクラル・バイオダイナミクスのバックボーンにある理屈は

100%物語である。


ブームとなった数々のエネルギーワークも物語だ。


もっというと、東洋医学もそうだ。

そんなにたくさんの真理はいらない。


真理はきっとそんなに複雑ではない。


とてもシンプルなものだ。


ひょっとしたら、

シンプルすぎて、表現しづらく、

物語で表現するしかないのかもしれない。

だったら、その物語も、よりシンプルなほうがいい。


クラニオバイオも合気道も

抽象度の高い記号に直して、

ヒントさえあれば、誰でも自分のなかで熟成できる、、

自分の内部にある更なるヒントでドンドン発展させていける。

そういうものを構築し、提供していきたい。


そして、それでいいのだ、、と考えるようになった。

さて、

今日の公園での稽古は、

予定通り、瞑想的な稽古をしました。

秋空の高い空のもと、

実験的に、「Who Is In」という瞑想の手法を取り入れた、

型稽古を、です。

お伝えしている側として、

一つ、ある気づきを得ました。

また、それは後ほど公開したいと思います。


では、また次回。

2015年10月17日 (土)

武道とセラピーをつなぐもの1

クラニオセイクラル・バイオダイナミクスの話をあまりブログに書かなくなった。

けっして、やめているわけではない。

むしろ合気道と同様、自分の中では深まっている。

ただ、観点が変わってきていることは確かだ。

武道とセラピーとの共通点、

それは相手との関係性の感受性を、

つまり自分の反応を観ることだと考えている。

相手との関係性の中に、相手も自分も包含して、

なにか全体の雰囲気の質を感じることができる。

それはもう、別に合気道の稽古の中だけでなく、

クライアントとのセッションだけでなく、

意識すれば、人と接しているときはいつでも感じられる。

そして、それは自分の中の自分との関係性を見ることでも

同様なのだ。


もっというと、モノとの関係性でも同じ。


対象との関係性と自分の中の自分との関係性が同質の場合、

共振して、良くも悪くも増幅する場合もある。


振り回されて感情も乱高下するかもしれない。


それを冷静に観ていられるか。


そのことを中心帰納というのだ。


それなしに、

その都度起こる無意識的な反応に気づきもせず、

単純に、こうしなければならないという思考に

追い立てられる状況に甘んじているのでは、


どれだけテクニックを身につけても、

知識を得ても、

虚しいだけだ。

そういう観点で、

もう一度、クラニオセイクラル・バイオダイナミクスについて

書いてみたい。


そして、その延長線上にみえてくる普遍的なモノが


合気道の求めるものと同じであるということを考えたい。

2015年10月14日 (水)

次回10月18日は屋外での稽古です。

18日は晴れそうなので、

また、新宿スポーツセンターは道場2つともイベントで占有されるとのことで、

新宿スポーツセンターの周りにある公園の芝生で稽古します。

秋晴れのもと屋外での稽古はとても気持ちいい予感がします。

自然の中で、自然に触発され、自然と一体となれる稽古をします。


自然と一体となれる稽古とは、、

言わずもがな、瞑想的な稽古です。


誤解を恐れずに言うと、

瞑想はとてもきもちいい。

ドーパミンなのか、エンドルフィンなのか、セロトニンなのか、

おそらく脳内物質が出まくるに違いない。

そういう状況だからこそ、

中心帰納を体感しやすくなるのだと推測します。


瞑想とはサトルための訓練の手段というのは周知の事実だ。

つまり、瞑想はサトリすら得られる脳内環境を実現する。

昔から、剣の修行に禅を採用したのは、

悟りを得るためのプロセスを踏襲することで、

中心帰納を体得しやすくしたのだ。


いずれにしても、そういう稽古をします。


↓↓↓

日時:10月18日(日)13:30~16:00
集合場所:新宿スポーツセンターの入り口にあるコンピニ横。
参加費:¥500
寒くない、そして多少汚れてもいい服装を持ってきてください。
事前連絡いただければありがたいですが、突然参加でも大丈夫です。
参加資格は特にありません。
連絡先:aikishira☆gmail.com (☆→@に変換してメールお願いします。)
事前連絡いただければ、白石の携帯をお知らせいたします。
     
では、お会いできること楽しみにしております。

2015年6月24日 (水)

成田新十郎先生の公開講座を企画します。


静中心セラピー研究会の一環として、

成田新十郎先生の

公開講座を企画します。

予定は、7月18日(土曜)の午前中です。

あまり時間がないので、

出来るだけ近いうちに正確な情報をお伝えしたいと考えてます。

この静中心合氣道 無元塾で、

常に念頭に置いて稽古している

”中心帰納” 

の本家本元です。

単に合氣道の稽古としてではなく、

実演も含めた僕とのトークセッション形式で、

また、セラピストの荒巻氏、

執筆家の押切氏など、僕の仲間の

かみ砕いた解説、説明も加え

充実した、楽しい、内容にしていきたいと考えております。

乞うご期待!

2014年9月27日 (土)

クラニオセイクラル・バイオダイナミクスは脳を守る。

いつもこのブログを読んでいただいてありがとうございます。


白石@クラニオアイキ です。

瞑想は脳を守るということを書いたブログがあった。

↓↓↓

http://blog.livedoor.jp/beziehungswahn/archives/26864164.html


(下記抜粋)


「これまでの瞑想の脳への効果を要約すると、感情や気分のコントロール能力の向上、


免疫機能の調整、抗酸化活性を高める、ストレス誘発コルチゾールの分泌を減らす、


ストレスなどの脳への刺激に対してにバランスが取れた応答が可能になる、


ストレスレベルの低下、ストレスの解消、肯定的な感情や高次の感情を育む、


神経回路網を強化する、認知予備能力や認知機能を高める、注意力や集中力が高まる、


瞑想をマスターした人の脳波所見では前頭部のθ波が増す(=リラクゼーションの状態にある)、


PTSDの症状を緩和させる、など、様々なすばらしい効果が報告されている。


瞑想にてADHDの症状までも良くなっていくらしい


(ADHDの児童が瞑想できるのかは疑問だが、私のような大人になったADHDのケースならば可能かも。汗;)。

とにかく瞑想は脳に非常にいいのであった。」


いいことづくめ、だ。


それだけでなく、脳の容積が増えるとも書いてある。

最近では、瞑想や禅に関する本を、本屋でよく目にするようになった。


でも、瞑想や禅にイマイチ入りづらいと感じている人もいると思う。


私もその一人だった。

では、なぜ瞑想がこんなに好きになってしまったか、、


それは、クラニオセイクラル・バイオダイナミクスで


その質感を体験したからだ。

ちょっと、思いついた。


クラニオセイクラル・バイオダイナミクスを瞑想の入口にしてもいいのでわないか。


そういうものだとわかれば、


瞑想もイメージしやすいだろう。


クラニオセイクラル・バイオダイナミクスは


二人でする瞑想とも言われている。


つまりは、こうだ。


「瞑想は脳を守る。」


「クラニオセイクラル・バイオダイナミクス = 瞑想」


すなわち、表題のとおり、


「クラニオセイクラル・バイオダイナミクスは脳を守る。」


ということだ。


2014年9月22日 (月)

第一回 Who Is In 無事終了しました。

こんにちは、白石@クラニオアイキです。

いつも、このブログを読んでいいただいてありがとうございます。

去る9月20日、白石が、初主催のWho Is Inを無事終了することができました。

正直、大変でした。

というのは、禅を継承しているからだと思うのですが。

するべきことがキッチリ決められていて、

それを厳密に遂行してくことを守らなければいけないからです。


そして、その場をしっかりとホールドしていかなくてはいけない。


仲間のサポートができなければ、絶対成し得なかったと思います。


本当に感謝いたします。


さて、以前書いたブログがあります。


↓↓↓
http://cranioaiki.cocolog-nifty.com/blog/2013/02/post-ba0b.html

この時は、書いていることは合気道や武道の切り口で書いていました。

しかし、そこで書いていることは、まさに最近話題になっている

デフォルト・モード・ネットワークに関することであり、

それにいい影響を与える手段として、今、取り沙汰されているが

瞑想や禅などだということです。

うつ病、統合失調症、認知症、アルツハイマー病、ADHD、

インターネット依存性、アルコール依存性、ギャンブル依存性、

いわゆる依存性と言われているもの全てに、そして慢性疲労、筋筋膜疼痛、

線維筋痛症などの原因不明の痛みにかんしても、何らかの関与があると

いわれているようです。

改めて、デフォルト・モード・ネットワーク(default mode network/DMN)

とはなんなのか。

平たく言うと、


ひとは、ボーとしているとき、何もしていないときにも、

深層のその分散した脳のいくつかの部分同士に接続活動があること。

そのDMNが活性化している。

情報のやり取りの仕方(接続性)は個性があり、それが個人の個性になる。

そして、その領域の活動時に記憶の整理、情報の統合、自己の認識など

の作業を無意識にしている。


要するにこういうことだ、

脳を輪切りにして、各個人の「私」という部分を探しても、

見つからない、それぞれの統合されたものが、「私」であり、


その統合とは、部分同士の接続性(ネットワーク)だというのだ。


そのDMNがまさに私そのものを形づくる重要な要素の一つなのだろう。

インターネットにあるDMNの説明の文章にいくつかの気になるセンテンスがあった。

①DMNは外部の刺激からは独立した思考と自己への内省に関連した機能を有する。

②DMNは統合失調症やうつ病ではDMNは過剰に活動している

③DMNは認知症で活動減少や一貫性の破綻がみられる。

④DMNはアルツハイマー病では異常なパターンが脳内アミロイド沈着のレベルに関与している。

⑤DMNは60歳以降ではアミロイド沈着とは関係なく脳の前部と後部の間といった遠い接続性が減少する。


つまりは、うつ病で言うと、

DMN領域で、過去の失敗を悔み、未来を不安におもうネガティブな思考

を無意識に反芻しているというパターンがあり、そしてその思考パターンを

ポジティブな思考にスムーズに変更できないということであり、

他の症状もそれぞれのDMNのパターンがあるというのだ。


とある本では、

無意識的に、生きる希望というか、喜びをなくした人ほど、

認知症や、アルツハイマー病になりやすいのではないかと仮説を立てていた。


そこで、瞑想や禅がとても有効だということなのだそうです。


それによって、脳の部分、部分をつなぐ機能がある「島」という部分の容積がふえる。

そして、脳の各部分に接続する機能が高まる。

つまり、新し脳の回路を作り、

いろんなモードへスムーズに移行しやすくするトレーニングになるということなのです。


結論として、やっぱり瞑想や禅はいいですねー。

治癒の一助として、高齢化社会の課題である認知症問題の予防として、

瞑想や禅をするべきでしょう。。

チャンチャンで終わりたいところですが、

Who Is Inを続けていく白石としては、もう一歩踏み込んで、、


上記のような病的症状がある場合、全て無意識層でパターンが形成される

ということが一つ重要なポイントだと考えてます。

例えば、うつ病に関して言うと、


無意識に反芻される思考パターンに翻弄されている当事者が

その無意識を、どのように意識上にあげ、気づき、解釈し、

消化していくのか、、


当然、ボーとすることだけでもDMNは活性化するということですので、

よくある感覚やイメージを切り口にした瞑想でも十分効果があると思います。


しかし、


Who Is Inはそれだけに留まらず、


更に踏み込んで、思考を切り口に、公案禅のやり方で、


言葉として意識上に汲み上げられた無意識的な感情、感覚、イメージ、思考を


口に表していきます。


自分から離れ出た思わぬ言葉は、それ自体が観照の対象となり、


自分のなかで、理解が深まります。


それは自分を知る上でとても効果的で、


ある領域に到達するのにとても速攻性があります。


それこそ、最初に書いた症状のある方もおすすめですが、


更に、自分を掘り下げて見つめる必要のある


普段から違う瞑想をやってらっしゃる方、武道家、格闘家、


ダンサー、カウンセラー、セラピスト、コーチ、教師、各種アスリート、


企業経営者、医療関係者 各界の方におすすめです。


改めて、


Who Is In いかがですか?


次回開催情報です。


↓↓↓↓

http://www.craniosacralbiodynamics-aiki.com/%E3%82%A2%E3%82%A6%E3%82%A7%E3%82%A2%E3%83%8D%E3%82%B9%E3%82%A4%E3%83%B3%E3%83%86%E3%83%B3%E3%82%B7%E3%83%96-who-is-in-new/who-is-in-%E9%96%8B%E5%82%AC%E6%97%A5%E7%A8%8B%E6%83%85%E5%A0%B1/

2014年9月17日 (水)

静中心セラピー研究会 発足

こんにちは、白石@クラニオアイキです。

いつもこのブログを読んでいただいてありがとうございます。


このネーミングを聞いて、どういう印象をもったでしょうか。

・訳が分からない。
・怪しい。
・とってつけたようだ。

様々なネガティブな感じを持ったかもしれません。

でも、実はその真逆です。


・説明を聞いてみるとシンプルで、
・納得がいき
・なかなかセンスのいいネーミング


に思えてきます。


まずは、ホームページをご覧ください。

 http://静中心.net/


サラリーマンをして、ある程度世の中の仕組みを理解したつもりのオッサン

ライターをして、直近飲み屋の経営も経験し、各界の著名人とのパイプを多く持つオッサン

作業療法士で、精神病棟の裏を垣間見てきたオッサン

3人の共通は様々なセラピーや武道を勉強してきて、

表面的なものではなく、真理を求めたいという思いがあり、

あーでもない、こーでもないと、今まで経験してきたこと、考えてきたこと、これからの傾向、

いろいろ喧々諤々話し合って、出てきた結論が、この


”静中心”というコンセプトです。


そして、なぜ研究会という名前を付け足したかというと、


それを説明するための、理解してもらうための、そして習得してもらう為の、

説得力のあるツールを開発・探求しているからです。


では、大凡どういうことなのかをお伝えすると、


発端は、以下の話の内容にナグハンズ押切氏が共鳴共感されたことから始まります。

普通のサラリーマンだった自分は、もともと好きだった、

整体やセラピーやボディーワークを継続的に習ってました。

そして、並行して武道も習ってました。

もし、それだけなら、いろいろなセラピーの手技のをもつ、

そして、合氣道などをならい、心身共に健康でいいですね。。

という感じで納まっていたことでしょう。

そこで出会ったのが、7年前、当時まだ教えに来られていた一元塾 成田先生でした。

とても滑らかな動き、こちらの動きと同調しているというか、

先が読めているというか、相手の動きをもコントロールしているようにも見えました。

いったい、どういう理屈でそれが出来るのか、遠慮ない私は面と向かって質問しました。

そして、帰ってきた言葉は

「想い方」であるというこたえでした。


頭の上には ?マークが浮かんでいたでしょう。


そして、その「想い方」は一つであるという。 


もう一つ 頭の上に?マークが浮かんだに違いない。


効率のいい動きを獲得するために、相手と同調するために、


先が読めるというような、相手をコントロールできるような動きになるためには、


身体操作的なトレーニングではなく、「想い方」、言い換えれば 「考え方」で


それが出来るというのだ。


これだけ聞いていると、認知行動療法みたいだ。


そしてその中で出てきた言葉が「中心帰納」だった。


みな意識が外に向かっているので、


それをその都度、自分の中心に戻す。


戻すときのイメージ


戻すときの質感


外から見たら、脱力しているように見えるかもしれない。

でも、それは単なる脱力ではない。


そして、それはその人の姿勢を正しくする。

いろんな姿勢、立った時、座った時、物を持った時、歩く時、

一番適正な姿勢に戻す。


そして、合氣道においての技は、正しい姿勢の自分に対して、


崩れた相手を処理するだけなのだという。


それを続けると、戻すという意図や、何らかのイメージはなくなり、

「無」や「空」の状態になり、

すなわち、思わざるな技がでるという。


要するに、思考を止めるための方法、、なのだ。


言うのは簡単だが、これを武道で実践するのはなかなか難しい。

攻めてくる相手に対する、恐怖心ややろうとするこちらの意図を

無くするということを想像すれば理解できるだろう。


ここまで書けば、勘の言い方はお分かりだと思いますが、

要するに、瞑想と同じプロセスをたどるのです。

そして、成田先生の状況を思い出すと、相手をやっつけるという雰囲気よりも、

瞑想的な質感を醸しだしていた。


決して、氣や目に見えないもので、相手に対して、意識的に作用させるように

意図するのではなく、自然にその質感自体が相手の脳に作用する。

そもそも人間には無意識的な共感機能が備わっているんだと思う。

意識的に共感しようとすると、同情など余計な思考がさしはさまれる。


常に、今ココの自分に立ち返り、瞑想的な質感で相手に対応する。


それを静中心となずける。


そうすると、柔らかな、滑らかな、無駄のない、効率的な動きが

自然に出てくるのだ。


そして更に一歩進んで、その静中心の時に感じる質感を感じ、


体感として記憶してもらう。


逆に、その質感を獲得してもらうために、結果で得られる姿勢や、動き


作ってもらうこともするかもしれない。


そして、その記憶された体感をフィードバックのトリガーにしてもらう。


それは相手に必ず影響する、なんらかの作用がある。


それは、間違いなく、セラピー、カウンセリングや人と関わりあう場面


例えば、営業などに有効に働く。


それを続けていると、いろいろなものが見えてくるかもしれない。


本質や方便などなど、

  以上、長文お読みいただいてありがとうございました。

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2014年9月 3日 (水)

佐々木将人先生の文章 第2弾

こんにちは 白石@クラニオアイキ です。

いつも、このブログを読んでいただいてありがとうございます。


さて、


前回に続いて佐々木将人先生の文章を載せたいと思います。

佐々木先生の文章は普遍的な示唆のある内容が多く、

今回の文章も何かの紹介文のようなのですが、とても心に残る文章です。


↓↓↓

言葉は心の食べ物 (乾舟 佐々木の将人)


人の使命は物作りである。

物には品物と人物とがあって、

物質の原点は原子で、その破綻が原爆であり、

人物の原点は家庭で、その破綻が国家の崩壊となる。

原子も家庭の平安も陰陽の調和の結びである。


争うも生きるも共に近き人 
 
 心しだいで道となりけり(乾舟)


個人も国家も近いものほど争い、また近い人や、

目の前の物で生かされている。

”平和は一つ争いは無限”で心しだいで幸、不幸となるように、

吾とは心である。

心の状態で神の道、神経が広くなったり、狭くなったり、

時には気絶からショック死となる。

それ故に言葉は命にして人を活かすが、言刃で切れれた

心の傷は治りにくい。

「体には生食を、心には活学を」で、人物創りの

家庭も学校も食と言葉の料理である。

しかし、食べ過ぎと長話は

「一人の満足、みんなの迷惑」でまずくなる。


↑↑↑


私のサラリーマン人生は、IT業界の中で過ごしてきた。

マイクロソフトのMS-DOSの時代から始まり、

その頃の時代の寵児は、アスキーの西さんという人だった。

MS-DOSからWindowsに変わり、一太郎、ロータス123が主流だったのが、

ワードとエクセルがそれに取って替わり、

PCはNEC王国だったのが、DOS/Vが台頭し、

ネットワークも、ノベルが一時期台頭したが、インターネットのTCP/IPプロトコルが

普及し、まさか各家庭にルーターが行き届き、インターネットがここまで身近になる

とは想像もしていなかった。

ゲームソフト、ビジネスソフトのパッケージの卸流通だったソフトバンクは、

突如、インターネットプロバイダーを宣言し、その後ボーダフォンを買収し現在の

規模になっている。この前年商が6兆円だと聞いて驚いた。

そして、現在、全てを飲み込むようにスマートフォンが普及している。

高校生や大学生は、当たり前のように、手元にある小さなパソコンつまりスマートフォンで、

インターネットにアクセスし、ネットサーフィンし、メールをし、LINEなど昔からあるチャット形式の

ツールでみんなとコミュニケーションをしている。

今までの人生は、この激変する業界の中で、変化のスピード感を感じ楽しかったが、

ある意味、流されて生きてきた。

自分の山を歩いてこなかった。


自分で決め、そして結果の責任を取る。。

どこまで厳密にするかは別として、サラリーマンにもそういう緊張感が必要なのではないか。


直近の10カ月は、全く違う業界に入り、生計を立てていたが、あまりにも会社の仕組みが

今までと違い、戸惑う反面、とても勉強になった。(このことは後日ユックリ書きたいと思います。)

要するに、先ほどの佐々木将人先生の物作りではないが、

IT業界での約25年は何か作ってこれたのだろうか。

最後の10年は確かに小さな会社で自分で売れるだろうと思う製品なんかを

考えたり、それを製品化したりした。

結果は売れなかったが、それに対する責任というものはアヤフヤだった。

責任に対しては恐怖心があった。


ゆっくり落ち着いて考えていきたいとおもう。

サラリーマンをしながらでも、自分のやりたいことを模索してきた。

それが、合気道であり、クラニオセイクラル・バイオダイナミクス(頭蓋仙骨療法)であり、

Who Is In なのだ。

そして、それらに共通する概念に対して、ナグハンズの押切氏に静中心法という名前を付けてもらった。

更に、それを軸に広がりを見せようとしている。


静中心法という概念は、

昔からある考え方ではあるけれど、

その切り口で、思考、感情、感覚、体に焦点をあて、

ある質感の習得を目指すという考え方はなかったのではないか。


今後は、それをチャント周知していきたい。

人物創りとして、静中心法を伝え、現在、心身で悩んでらっしゃる方への

お手伝いをさせていただくことを使命としてやっていきたい。


最悪は、寝て起きて生活できるだけのスペースと

1日お握り3個の生活でやっていくという覚悟をもってやっていきたいと

考えてます。


よろしくお願いいたします。


2013年7月16日 (火)

山本太郎

先日、街頭演説をやっていた。

非常にもっともなことを言っていた。


詳細な内容は、どうでもいい。

どうでもいいというと、語弊があるかもしれないが、


山本太郎が言っていることは

真実なのかもしれない。


原発、TPP、ブラック企業

要するにこの3つをなくせと言っている。


この3つに関して、利益を得るのは、ある企業であり、

一般市民はどんどん立場が悪くなっていくと言っている。


だから、それをなくすためにどうすべきか、、、


そういう仕組みに絡み取られた、、つまりシガラミのあるひとでは、

もうそれは無くせないっといいているのだ。

要するに、

何もシガラミがない自分を政治に送り込むために、

投票してほしいといっているのだ。


そして、そういうムーブメントを起こしていきたいという。


そこから先はどこまで信用するか、、選択するのは皆それぞれだ。


山本太郎自身は単純に生き残りたいから起こしている行動だという。


確かに、3・11の出来事から彼は変わった。


そんな感じはしていた。


彼の演説は説得力があった。


彼の展開する想いは周りの空間に伝搬し、


聞く人たちに少なからず影響を与えた。


そういう力を持っている。


そこにとても興味をそそられる。


だから、最初内容なんてどうでもいいと書いてしまった。

誰にでも想いはある。


だから誰でもその想いでもって周りのひとを巻き込むことはできる。


人間であればみんなそういう能力はあるのだ。


ただ、どこまでそれを信じて、情熱をもってそれを伝えることができるか、、


そこがポイントとなる。


でも大体の人は、自分自身が作り上げた想いを信じられなくなる。


なぜなら、それを否定する人たちが必ずいるからだ。


外側にも内側にも。


そして、その想いを提唱した自分自身も信じられなくなる。


一歩間違えば、病が発症するくらいだ。

山本太郎はそこを乗り越えようとしている。


そして、それを自分でどう表現していたか。。


”そんなバカな自分を参議院に当選させてくれ”


と言っていた。


そうだバカになる必要があるのか。。


自分はバカに成りきれるか、


どこか小賢しいところがチラつく。


どこか誤魔化している。

50にして、バカに成りきる。。。

できるのか?


さて、


ここから先は、現時点での自論、、

当然様々な本や思想の影響があるので、

全体的なバランスがどう偏っているかはわからない。


人間は宇宙の法則から生まれた一生命体だ。

それ以上でも、それ以下でもない。

だから、その観点からいくと、

人の命というのは、タラコの卵一粒となんら変わりない。

運のいい個体はうまく生き延び、

運の悪い個体はいとも簡単に死んでしまう。

有機物から生命が生まれ、

単細胞から多細胞に進化し、

快と不快のセンサーを発端に

様々な感覚が発達していく。

人の頭の中を開いてみても、

私という統合した部分は発見されないという。

前に書いた感覚などのインプットされる部分、

筋肉などを動かすアウトプットする部分、

記憶する部分、

制御する部分、


それぞれの部分が散らばっているだけだ。


つまり、

それぞれの脳がもつ部分の特性と、

それぞれ個体の経験/体験で、

それが、バーチャルな空間に発生するかのごとく、

私という陽炎(かげろう)が浮かび上がる。


陽炎である私は、

自分の存在を強化するために、

過去の反省をもとに、

未来に備える行動をとる。


私たちは、

陽炎である私の集合する社会を統制するために、

様々なストーリーを作り始める。

政治、宗教、天国、地獄、前世、後世、神様、仏様、お化け、幽霊、学問などなど、

それぞれの社会は、それぞれの文明/文化を形成していく。

もともと、陽炎(バーチャル)である私達が作り上げた文明/文化のフィードバックをうけて、

バーチャルである私経由で脳のそれそれの持つ部分の強化がなされていく。


脳への継続的な強化は、幾世代かのうちにDNAにも影響をする。


バーチャルである私がいつの間にか絶対的なものとなり、

社会のなかで、比較され、競争を強いられ、

たかがバーチャルな私であるにもかかわらず、

思い悩み始める。

じゃー、バーチャルじゃない私というものはあるのか、、

あるマスターは”ない”という。

そこに行きつくことが最終的な悟りだと言っている。

僕自身にはまだわからない。


ただ、想像はつく。


エゴに巻き込まれているときの、私の状況を思い浮かべたとき、


私がなくなった時の静寂を想像することができる。


おそらく周りとの一体感と恍惚感で、まさに我を失う状況だろう。

。。

。。。


本当にバカになるということは、

私を無くすということなのだ。

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