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人生

2016年3月 8日 (火)

認知症 700万人


この表題にピンときて、

書きかけて、1週間が経ってしまった。

合氣道や、クラニオバイオがこの認知症に対して

予防的に良いものだという内容に仕上げるつもりだったのだが、

途中、ピロリ菌の作るタンパク質が認知症の原因にもなる

というような記事がアメリカで発表されたのを知って筆が止まってしまった。


面白いのは、以前からこの認知症の原因としてピロリ菌が一因ということは言われていたようで、

2015年以前に書かれたものは全て

ピロリ菌が出すアンモニアが誘発する物質として書かれている。

ここで、気をつけなければいけないのは、

文章の中に書かれている、一因、、と書かれていることだ。

つまり、他にも原因となるファクターが存在するということなのだ。


少なくとも、この認知症は、

医療が発達して寿命が長くなって発生数が多くなる病だ。

そういう意味では、ガンなど他の病も同様だろう。


ということは、

寿命が延びた現代の生き方に対する考え方で、その病の在り方が変わることを意味する。

情報が錯綜して、どの要因が、一番プライオリティーが高いのかわからない。

その順位付けをするのはまさに個人の考え方による。

たとえば、

ピロリ菌が胃の中に存在するということで、それにバランスをとっている現状があるとすると、ピロリ菌がいなくなることで、またその状況でバランスをとりはじめる。そのバランスの在り方が、良く働く場合もあるし、悪く働く場合もある。

以前、知り合いがピロリ菌の除去をする時の抗生物質をのむたびに胃の調子が悪くなり、それが始まりで胃癌になりなくなった。

ひょとしたら、前段階で既に癌が潜在していたのかもしれないが、真相はわからない。


表題から話がそれてしまったが、

認知症で減少してしくエリア(デフォルトモードネットワーク)が活性し、増加する

瞑想や、それに等しい質感を持つ、

合気道や、クラニオバイオが、

認知症の対策に有効のは、

おそらく間違いない。

認知症が700万に達するのは、

2025年と言われている。

そんなに先の話では無い。

2016年2月 1日 (月)

良いものは良い、淡々と続けていこう。


世の中には沢山の神様がいる。

八百万どころではない。

神様毎に違う教えを主張したりしている。

同じ経典が元なのに、違う神様が出たりもする。

最初の人は悟りを得ただけの人だったのに、

いつの間にか、その人を神様にも仕立てたりもする。

その弟子たちが、その神様以上のエスパーになってしまっていたりもする。

狐が神様になっている場合もある。

宇宙人を神様にしているところもある。

そのうちコンピュータを神様にする人たちが出てくるかもしれない。


そこで、問題です。


どの神様が一番えらいでしょーか?

答えは、

良いと思った神様が良い(えらい)、、です。

信じ切ることが出来るのであれば。

仮にそれが物語でも。

だいたい冷静にみれば、この世のほとんどは物語だ。

プロセスとして、その物語に浸ることが
必要なのかもしれない。

そして、ある真実に気づいた時、

その物語は、物語でしかなくなる。


自分は、クラニオバイオという物語に出会えてよかった。

そのお陰で、合気道という物語の

"中心帰納"という真理に出会えたからだ。

感謝します。


ひょっとしたら、それも物語なのかもしれない。


でも、良いものは良い。

信じて淡々と続けていこうと思います。

2016年1月23日 (土)

瞬間を真摯に生きる人


久しぶりに先日ブログに書いた女性を見かけた。

過去ブログ参照

↓↓↓
http://ameblo.jp/mugenjuku7/entry-12107192608.html

(内容は下記の通り)
ときどき、ある場所で、一定の時間に、一人の、女性とすれ違う。
とても気になる。気付いてもう半年くらい。
年齢は40か、50くらいか、限りなく痩せていて、
まわりのペースとは違うゆっくりとした
スピードで歩いてる。おろらく何らかの病気か、
その後の療養期間なのか、、明らかに普通ではない。
しかし、なんの惨めさもない、ゆっくりではあるけど、
筋肉がなくそれに頼れない分、
無駄がない歩き方。周りを気にする様子もなく、
滅入ってい感じも全くない。毅然として、品すら感じる。
それは、覚悟して生きているから出てくる何かなのか、
何かを克服しようとする意欲からなのか、
人の存在感はその人の考え方が映し出される。
その存在感の理由を知りたい。
ここしばらく、その人の姿を見ていない。すこし心配だ。

↑↑↑

どのくらいぶりだろうか、、、

相変わらずゆっくり一歩一歩を確かめながら、
でもそれは決して重い感じではなく、
自分の体の重さを最も効率よく負荷がかからないように
歩いているように見える。

半年くらい前とはちがって
ニット帽とマフラーをしていた。
自分の歩くことだけにすべてを費やしているようで、
それが神々しく、声を掛けようとすることも躊躇いを感じる。

歩く、その瞬間に生きている感じだ。

声を掛けたい衝動に駆られながら、声を掛けられない。

なんか恐れ多い。

なによりも、唐突に敬意の念を伝えるのはなにか
トンチンカンが気がする自分がいる。

なぜなら、これらは僕の頭の中の妄想だからだ。

仮に妄想だったとしても、そのような人に出会うと、

なにか気づかせてもらえるというか、
敬意を感じるというか、

感謝の念を伝えたくなる。

2015年12月 8日 (火)

犬の葬儀

お察しがつくかと思いますが、身内の不幸とは、犬のラブのことでした。

当然人間ほどのことではありませんが、
家族にとっては、ケジメとして、
何らかの儀式が必要でした。

存在としてあったものが、無くなる。
意識していたものが無くなる。

感情的なものとは別に違う感覚として、
何か空虚感のようなものを感じる。

その空虚感とは、
その存在していたもののと過ごした
時間、空間、愛着、煩わしさ、妥協、後悔、楽しさ、嬉しさ、嫌悪、幸福感などなど、そういう記憶に匹敵するのだろう。

その空虚感が小さくても、大きすぎても何か実感がわかない。

そういうものかもしれない。

在って当然だったものがなくなる。

でも、すぐにでも現れるかもしれないそんな感覚。

しかし、頭ではそんなはずはないとわかっている。

その感覚と頭での理解とのギャップが、
その、空虚感を無常という思考に置き換える。

そういう状態は家族から見ると、冷たい態度に見えているようだ。

ひょっとしたら、僕自身他の人より悲しみという感情が少ないのかもしれない。

今回、ラブの葬儀の話で死に対する考え方を話したら家族から人で無し呼ばわり状態になった。

簡単に話すと、自分の葬儀は特にする必要はなく、法に触れない程度の最低限の処理でいいと、つまり、前世後世天国地獄という物語はそれ以上でもそれ以下でもない、そう考えると都合よく辻褄の合う仕組みがこの社会に存在するだけで、 肉体が消滅すれば、全ては文字通り無くなるのだ。。。
という自論をぶちまけたのだ。

つまり、自分の葬式でさえ焼いて海にでも、山にでも撒いてくれて、最小限の弔いで良いと考えているのだから、犬の葬儀などあまり真剣に考えていなかったのだ。

ところが、家族はやれ、保健所では可哀想だとか、合同火葬ではなく個別火葬でないと可哀想だとか、埋葬はどこのお寺が良いだとか、既にいない犬本人とは無関係に、この物語のなかで自己の欲求を満たす作業をしている。

当然、気持ちは理解できる。
なので人で無し呼ばわれ以降、
発言することは止めにした。

しかし、

明らかに、インターネットに数多出てくる、
ペット葬儀の類いは、その物語に便乗した
ビジネスにしか見えない。

そして、人の葬儀もその延長線上にあるように思える。

ぼくは、無宗教者だ。

敢えて言うと、

ぼくのそういう宗教的考え方は、

合気道を学んで出てくるものだ。

それは、死や恐怖に直面した時の考え方

を学ぶものだ。

ある意味まさに宗教だ。

ただ単にカタチとしての技を覚えるだけなら、断片的な沢山の技を積み重ねる事に終始することになる。

全ての技の中にある目に見えない一つを習得するためには、会得するまで信じるという精神的作業がいる。

それはまさに宗教的作業だ。

その信じる作業を成し遂げるには、

できるだけ矛盾のない、一貫性のある考え方

でないと疲れてしまう。

それはよく聞く身体操作論だけでは足らない。

どうしても、心理学や脳科学などを持ってきて理由付けしないと腑に落ちない。

当然それを飛び越して悟るという方法もあるだろうがそれは限りなく難しい。

脱線してしまった。

話を元に戻して、、、

結局、数多あるインターネットや
知り合いからの紹介の中から、

電話対応の感じの良い葬儀屋さんに

お願いすることになった。


あれだけ自論をぶちまけたにもかかわらず


キレイに納められた骨壷を見たとき、


少し安心した自分がいた。


2015年12月 6日 (日)

身内に不幸があり、本日の稽古は急遽おやすみです。


本日 12月6日の合気道の稽古は、

都合がつかなくなり、

突然ですが、お休みさせていただきます。

大変申し訳ございませんが、

よろしくご了承お願いいたします。

2015年10月17日 (土)

武道とセラピーをつなぐもの1

クラニオセイクラル・バイオダイナミクスの話をあまりブログに書かなくなった。

けっして、やめているわけではない。

むしろ合気道と同様、自分の中では深まっている。

ただ、観点が変わってきていることは確かだ。

武道とセラピーとの共通点、

それは相手との関係性の感受性を、

つまり自分の反応を観ることだと考えている。

相手との関係性の中に、相手も自分も包含して、

なにか全体の雰囲気の質を感じることができる。

それはもう、別に合気道の稽古の中だけでなく、

クライアントとのセッションだけでなく、

意識すれば、人と接しているときはいつでも感じられる。

そして、それは自分の中の自分との関係性を見ることでも

同様なのだ。


もっというと、モノとの関係性でも同じ。


対象との関係性と自分の中の自分との関係性が同質の場合、

共振して、良くも悪くも増幅する場合もある。


振り回されて感情も乱高下するかもしれない。


それを冷静に観ていられるか。


そのことを中心帰納というのだ。


それなしに、

その都度起こる無意識的な反応に気づきもせず、

単純に、こうしなければならないという思考に

追い立てられる状況に甘んじているのでは、


どれだけテクニックを身につけても、

知識を得ても、

虚しいだけだ。

そういう観点で、

もう一度、クラニオセイクラル・バイオダイナミクスについて

書いてみたい。


そして、その延長線上にみえてくる普遍的なモノが


合気道の求めるものと同じであるということを考えたい。

2015年6月27日 (土)

親父の基底細胞がん

常に違和感が付きまとう。


もう少しその感覚に敏感でいようと思った。

その感覚を鈍感にするのは、

一番は迎合(適応)という思考だ。

また、違和感をそのまま表現しようとすると、

それまた抵抗感を感じる。

おそらくそうすることによって、人にどう評価されるか

不安なのだ。

恐怖すら感じる。

なぜそんなに不安なのか。

そこを見つめる必要がある。

人間は死ぬことがわかっていて、生きていく。

生まれたと同時に、死に向かい、死ぬまで体は健康になろうとする。

それは無意識にやっている。

それを意識する。

意識の仕方によっては、

死よりも別のものを優先する価値観を持つことが出来る。

それがマイナス方向に働けば、

自らの意志で積極的に死を選択することもする。

先ほど出てきた迎合(適応)に失敗した時なんかがそうだ。

だとしたら、

最初から迎合なんかせず、

違和感は違和感としてチャント認識できるように、

チャント気づいていくようにする。

中心帰納の稽古は、


ただの感覚の稽古ではない。


感覚にまとわりついた思考にも気づいているべきだ。


それに鈍感なままでいると、いつまでたっても会得できないことになる。


きっと、そういうことなのだ。


うちの親父が、基底細胞がんだという連絡があった。


会いにいったら、いつもと変わらず説教をされた。


死ぬまで健康でいようとするエネルギーを感じた。

2015年4月 4日 (土)

何気ない文章、、、人生は競争じゃない。。

先日、養蜂家の方が、静中心セミナーにいらっしゃったことをお伝えした。

第2回目は、お仕事が忙しく、来れないという連絡が入った。

今後の展開を考える中、

その養蜂家の方にいていただけるように代替日のことを

いただいた名刺を見ながら考えていた。

貰った時には見落としていた、名刺の裏側を見て、

とても素敵な文章が書かれているのを発見した。

↓↓↓

僕が「LIFE」誌が掲載した人間の卵の受胎写真を見た時、

学校で教わった競争の話とは随分違うなと思ったものだ。

そう、どの精子が最初に卵にたどり着き、受胎するかという話だ。

でも、違ったんだ。

「LEFE」誌には、あるノルウェーの写真家が納めた本当の姿が載っていた。

その本当の姿とは、卵子を取り囲んだ精子達が周囲を回りながら、

一分間に8回、まるで原始の踊りのごとく自らの尾をくねくね躍らせるる

というものだった。

8という数字がまた無限大のサインを思わせるじゃないか。

僕たちはダンスで生まれたんだ。人生は競争じゃない。

誰かと競い合うのではなく、みんなで一緒に楽しむものなのだ。


たとえばこの蜜蜂のように。

↑↑↑


そのとうりだと思った。

だから人を殺める技術として発祥した武道でさえ、

生きるための術として昇華されるのだと思う。


ふと思った、

僕も名刺を作ろう。


逆に今まで、なぜ名刺を作らなかったのかと、


自分は、合氣道やセはピーを通じて生きていく、

それを軸に今後生きていく。

なんか、ぞくぞくする。

2015年4月 2日 (木)

がん、癌、ガン

それぞれ、意味、もしくはニュアンスの違いを表現しているようだ。

あるページでは、がんとガンは同じで、

癌は明確な違う使い方をされているようだ。


がん=悪性腫瘍全体の事を指す

癌=悪性腫瘍のうち上皮性のものを指す


がんとガンは使う人によって、主観的使われ方をしている。

本来、身近な病気なのにその身にならないと他人事だ。

最近周りでそれをよく聞くようになった。

自分も含めてそういう年代になったからだと思う。


がんという名前でひとくくりにしているが、

Wikipediaでは、分類としては29大分類がるということだ。

大分類ということは、その下にさらに分類がある。

そして、各個人の個性を考えると症状はおそらく無限にある。

全てのDNAの解析が終わったと聞いて久しい。

しかし、細かい部分の組み合わせでおこるパターンは無限だし、

各個人の個性を考えると、


がんだけでなく、病気とは、つまりそれぞれ違う病気なのだ。

それをお医者さんは治そうとしているのだから大変だ。

医療業界のヒエラルキーのトップに立つ証となる、

医大への入学、難関国家試験合格、研修、おそらく臨床を何十年経験をしても、

毎回が初心者のように、不安と緊張に遭遇するだろうことを想像できる。

アンジェリーナ・ジョリーが、最近がん発症前の卵巣を摘出したと

議論が巻き起こっている。

それが正しいか、間違いか、、などというもの。


それは、本人が言っていることなのだが、

そういう選択肢があり、そう選択したというだけなのだ。

他の人も選択肢として可能なのであれば、選択できるそれだけなのだ。

そして、摘出を選択した理由は、

その人の、死生観、価値観、つまり考え方がそういうことだっただけだ。

卵巣がんになるリスクはなくなった。

しかし、摘出することで起こりうるリスクは覚悟した。

そこで起こりうるリスクの責任はとる覚悟をした。

そういうことだ。

本人の問題なのだ、他人がとやかく言うことではない。

たまたま、世界的な女優だったから、また、がんだったから、

話題になっている。

脳溢血の予防で、発症前に脳の血管の手術をしている

一般の人たちはたくさんいる。


2人に1人ががんで死ぬという。

そんな簡単な数字ではないと思う。

100%がんで死ぬと考えた方がいい。

たまたま、がんになる前に、心臓病や、脳梗塞などの、

原因で死ぬだけなのだ。

そういう考え方でがんを意識し、向き合った方がいい。

そう考えたときに、1年後か、10年後か、

がんになるまでどう生きるか、

がんになったら、どう考えて生きるか、


そう生きた方がいい。


自己滅却。

自己第一主義。

自分に静中心して、生きた方がいい。


2015年3月23日 (月)

流星ワゴン


とても面白いドラマだった。

死ぬ間際の主人公が、既に死んで成仏できない親子が迎えるワゴンに乗り、


人生の岐路のタイミングに溯って、現在後悔している過去をやり直すというストーリーだ。


そこには、主人公と同じ年齢にまで若返った、これまた死ぬ間際の父親まで同乗する。


なんでもありの設定だ。


内容としては、そんなに都合よくやり直せるわけではなく、


結局、最低最悪の現実に戻り、過去に戻っても修正できなかったその現実に向き合い、


前向きに生きていくというエンディングとなる。


なんて都合のいいストーリーだ。


そうなのだ。


人がそれぞれ持つ”私”という幻想は、現実を物語というベールで包む。


その幻想が作り出した物語に人は共感する。


その物語は、とても面白く説得力まで生み、人の興味をそそるのだ。

その物語の要素として、


幽霊、タイムスリップ、前世、後世、あの世、生まれ変わり、成仏、、


という考え方をつくる。

都合よくつくり変える。


輪廻転生は無いよと御釈迦さんが言って始まった仏教だって、


輪廻転生をうたってお葬式をする。

ドラマの中で、香川照之の演技がとてもすごく、


本当ではありえない内容の設定でも、


その中に引きづり込まれ、感動し、涙すらする。

人間は虚構や幻想を通して、真実を伝えようとするのだろうか。

そういう意味で、


クラニオセイクラル・バイオダイナミクスも、

合氣道も、

瞑想も、


虚構であり、幻想なのかもしれない、

いや、そういう表現を使った物語だ。


でも、


それを通じての1つの真実が

必ずある。

そう思う。


ドラマの最終回は、


100%のハッピーエンドではなく、


結局は何ら変わらない現実に戻り、


タイムスリップした際に繰り返し、やり直しを試み、失敗などして、


自分に向き合う考え方を獲得した主人公が、


現実を受け止め、


あきらめずに生きていく覚悟を決めるという

今の自分には違和感の無い終わり方で、

とても共感した。