2016年11月
    1 2 3 4 5
6 7 8 9 10 11 12
13 14 15 16 17 18 19
20 21 22 23 24 25 26
27 28 29 30      
無料ブログはココログ

« 気づきという傲慢な表現 | トップページ | 答えなき問いを考えつづける。それが真理。 »

2016年10月11日 (火)

日常で考えること。


近くに狭いが自転車が2台くらいは通れるくらいの道がある。

そこは意外に交通量が多く、
よく進行方向から自転車がやってくる。
当然すれ違う形になる。
ここでとても面白いことがわかる。

当たらないように、相手を意識すればするほど自転車のハンドルが当たりそうになる。

時には、心に反して近づいていくことすらある。握ったハンドルがプルプル震え、立て直そうとする勢いで反対側に傾き、その反動でさらに相手側に接近し、前にも増して危険な状態になる。

何回かすれ違っていると、だんだんわかってくることがある。

それは、相手を意識しないほうがそういうことが起こらない、、ということだ。

逆の言い方をすると、相手に当たらないように考えれば考えるほど相手に当たりそうになる。


同じようなことが書かれた宮本武蔵の逸話がある。

兵法上達の方法の話で、

武蔵がある武士に畳の縁を踏み外さず歩けるかと問うと、その武士は当然歩けると答える。ではその高さが1間(1.8m)であればどうかと問うとその武士は難しいと答えた。
では、その縁の幅が三尺であればと武蔵が問うと簡単だと答える。
では、今度はその三尺の縁を姫路城の天守から一里先の山に掛け渡したらどうかと問うと、その武士は無理だと答えたという。

そこで武蔵はこう答える。修行が足らないからだ。本心がしっかり定まっていればこのようなことはない。要するに心の持ちようなのだと。。

つまり、平常心の事を言っている。

そりゃそうだ、、とこれを読んだ人は思うだろう。

そうなんだ。心の持ち方なんだよねー。。


そして場合によっては綱渡りの話になるだろう。

風が吹いたらとてもじゃないけど、、
なんていう会話にもなる。

そこで思考停止状態だ。

でも決してそうじゃない。

10cmの高さでも渡ることが難しい綱を渡る話ではない。

普通では簡単なことが、恐怖や不安にさらされることで普段できることが出来なくなるという人間の心理的なパターンのことをいっているのだ。


武蔵はそれをサラッと修行が足らないからだ。本心をしっかり定めることが大切だ、、と、簡単に説いている。

では修行とはどんな修行なのだ?

本心ってなに?!

という問いが出てくる。


実際、目も眩む高い位置にある三尺の幅の板の上を歩くのに、落ちないようにと自分に強く言い聞かせることのほうが、より落ちる結果を生む。

なぜならその思考の元が、不安や恐怖から起きているからだ。

少なくとも、恐怖や不安を客観的にみとめることが必要だ。

決してそれらに巻き込まれるのではなく、
あくまで、受け入れるように冷静に観るのだ。

先ぼどのすれ違う自転車のように、このようなことは日常でたくさん存在する。

そういうことを認識して、とことん考え尽くす。

その解決のわかりやすいヒントの1つが、
中心帰納の稽古だ。

ここの合気道はその種の稽古をする。

この切り口で型稽古をする。

ただ、タイミング、スピード、力など方法論に重点を置く稽古だけではおそらく武蔵がいう修行にはならない。

その意味が分からなければ、中心帰納の会得は難しい。

« 気づきという傲慢な表現 | トップページ | 答えなき問いを考えつづける。それが真理。 »

合気道」カテゴリの記事

トラックバック

この記事のトラックバックURL:
http://app.f.cocolog-nifty.com/t/trackback/1480795/67896529

この記事へのトラックバック一覧です: 日常で考えること。:

« 気づきという傲慢な表現 | トップページ | 答えなき問いを考えつづける。それが真理。 »