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2015年12月 8日 (火)

犬の葬儀

お察しがつくかと思いますが、身内の不幸とは、犬のラブのことでした。

当然人間ほどのことではありませんが、
家族にとっては、ケジメとして、
何らかの儀式が必要でした。

存在としてあったものが、無くなる。
意識していたものが無くなる。

感情的なものとは別に違う感覚として、
何か空虚感のようなものを感じる。

その空虚感とは、
その存在していたもののと過ごした
時間、空間、愛着、煩わしさ、妥協、後悔、楽しさ、嬉しさ、嫌悪、幸福感などなど、そういう記憶に匹敵するのだろう。

その空虚感が小さくても、大きすぎても何か実感がわかない。

そういうものかもしれない。

在って当然だったものがなくなる。

でも、すぐにでも現れるかもしれないそんな感覚。

しかし、頭ではそんなはずはないとわかっている。

その感覚と頭での理解とのギャップが、
その、空虚感を無常という思考に置き換える。

そういう状態は家族から見ると、冷たい態度に見えているようだ。

ひょっとしたら、僕自身他の人より悲しみという感情が少ないのかもしれない。

今回、ラブの葬儀の話で死に対する考え方を話したら家族から人で無し呼ばわり状態になった。

簡単に話すと、自分の葬儀は特にする必要はなく、法に触れない程度の最低限の処理でいいと、つまり、前世後世天国地獄という物語はそれ以上でもそれ以下でもない、そう考えると都合よく辻褄の合う仕組みがこの社会に存在するだけで、 肉体が消滅すれば、全ては文字通り無くなるのだ。。。
という自論をぶちまけたのだ。

つまり、自分の葬式でさえ焼いて海にでも、山にでも撒いてくれて、最小限の弔いで良いと考えているのだから、犬の葬儀などあまり真剣に考えていなかったのだ。

ところが、家族はやれ、保健所では可哀想だとか、合同火葬ではなく個別火葬でないと可哀想だとか、埋葬はどこのお寺が良いだとか、既にいない犬本人とは無関係に、この物語のなかで自己の欲求を満たす作業をしている。

当然、気持ちは理解できる。
なので人で無し呼ばわれ以降、
発言することは止めにした。

しかし、

明らかに、インターネットに数多出てくる、
ペット葬儀の類いは、その物語に便乗した
ビジネスにしか見えない。

そして、人の葬儀もその延長線上にあるように思える。

ぼくは、無宗教者だ。

敢えて言うと、

ぼくのそういう宗教的考え方は、

合気道を学んで出てくるものだ。

それは、死や恐怖に直面した時の考え方

を学ぶものだ。

ある意味まさに宗教だ。

ただ単にカタチとしての技を覚えるだけなら、断片的な沢山の技を積み重ねる事に終始することになる。

全ての技の中にある目に見えない一つを習得するためには、会得するまで信じるという精神的作業がいる。

それはまさに宗教的作業だ。

その信じる作業を成し遂げるには、

できるだけ矛盾のない、一貫性のある考え方

でないと疲れてしまう。

それはよく聞く身体操作論だけでは足らない。

どうしても、心理学や脳科学などを持ってきて理由付けしないと腑に落ちない。

当然それを飛び越して悟るという方法もあるだろうがそれは限りなく難しい。

脱線してしまった。

話を元に戻して、、、

結局、数多あるインターネットや
知り合いからの紹介の中から、

電話対応の感じの良い葬儀屋さんに

お願いすることになった。


あれだけ自論をぶちまけたにもかかわらず


キレイに納められた骨壷を見たとき、


少し安心した自分がいた。


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