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2015年4月20日 (月)

諸子百家


学生の頃に学んだ歴史で、妙に記憶に残っていること。

紀元前400年頃の中国の戦国時代に出た思想とそれを提唱した多数の思想家のことだ。

この時代に、すべての思想が出尽くしていると教えられた。

儒教や、道教もこの時代に排出されている。

どれだけ前後するかわからないが、だいたいこの頃、インドでは仏教が提唱される。

その約500年後 キリスト教が出てくる。

つまり、現代流行っている、センセーショナルな感じで言われる考え方も、

何のことはない、2500年前にすでに言われていたことばかりなのだ。

ただ、表現方法が違うだけなのだ。


表現の違いは、文化の違い、

考え方(方法)の違い、そしてそれは目的ではなく手段なのだ。

例えば、気をエネルギーとしてとらえる気功。

改めてWikipediaを読んでみると、

中国では数千種類にも及び、練功に関しては、

ハッキリ言って、瞑想の方法と何ら変わらない。

つまり、同じことをやっているのだ。

違いは、気というエネルギーを物理的なものに作用させることが

出来るという考え方がベースにある。

手をカザして、カザされた体の部位に影響を与えるというような考え方。

瞑想と気功はおそらく効用は同じだ。

静的なものから、動的なものまで、

シンプルなものから、複雑なもの、

数千、数万とは言わず、おそらく無限にある。

つまり、瞑想と気功(もしくは練功?)は同じなのだ。

みんな、それをあたかも違うように言う。

(中には同じだと言っている人もいるかもしれない)

瞑想の中でも、当然いろいろな種類がありがるが、

プロセスが違うだけで、行き着く先は同じだ。

たとえ、集中型の瞑想であろうが、気づきの瞑想であろうが、

マントラをつかおうが、シンボルをつかおうが、

感覚を利用しようが、、、だ。

武道も、合氣道、太極拳、空手であろうが、

とある一つの真理を探究する方向性さえ定まっていれば

回り道、近道、いろいろあるかもしれないが、

同じなのだろうと思う。


それが方向性の角度が一度でも違うと

時間が経つと、目標から離れてしまう。

ましてや、出発点が違うのだから、言わずもがなだ。

当然、紆余曲折はあるだろうから、方向が狂った段階で、

修正できるように、自分を保っておく。


その為に必要なことは、下記の様に4つある。


1、 固執しない。とらわれない。

2、 全てを受け入れる。受容的である。

3、 自分に客観的でいる。俯瞰的でいる。

4、 自然の力を信用する。それは自分を信用するということ。


ただし、最初からこういう抽象的な考えを聞いても腑に落ちない。


やはり、具体的なものを、ある切り口で表現されているものを学ぶ必要がある。


例えば、僕でいえば、合氣道であり、


クラニオセイクラル・バイオダイナミクスだ。


で、どちらも同じだと感じた。

どこかのHPで下記内容を読んだ。


↓↓↓


野口晴哉先生とフェルデンクライス博士とのやりとりがあり、


フェルデンクライスは、病気を治し健康を獲得する為に

1700余りの体操を作ったそうだが、それでも足りないと言う。

「 あなたはどれ位つくられたか? 」 と訊かれたと ・・・

それに対し、野口晴哉は オンリイ・ワン

「 生命の為の体操は一つで良い 」 と答えたとのこと、

つまり、それは活元運動 のこと。


↑↑↑


これは何を意味しているのか、、

目的は同じだが、考え方の違いでこれだけプロセスがかわる。

誤解を恐れず言い切ると、

フェルデンクライスメソッドは神経回路の再教育という表現をしているが、

ATMの手法は指導者の言葉による誘導の元、動作を手段に

行われる瞑想と表現してもなんらおかしくない。

FIに関しては、1対1で行うので、より共感力という手段でそれが行われる。

アレキサンダーテクニークも手段と形態が違うだけで、同じことなんだと思う。

下記のような内容がとあるHPに書かれていた、

↓↓↓

「アレクサンダー・ワークは治療というよりは武道のように進化してきました。

その発達の仕方はカイロプラクティックよりは合気道に近いのです」

なぜ著者は「合気道に近い」と言うのか。

別のページで、アレクサンダー自身の技法の精妙さを示すエピソードが紹介されている。

「アレクサンダーの手がもっていたほどの能力のある先生は、世界中にほとんどいません。

アレクサンダーは片手をあなたの頭のてっぺんにおいて、

イスからあ なたを文字通り引っ張り上げて立たせることが、彼の手にある方向性により、できたのです。

それはまったく奇跡のように生徒を空中に吸い上げる感じで、

そのひとはどうしようもなかった、といいます」

アレクサンダーという名前の部分を著名な合気道の達人の名前に置き換え、

「方向性」という単語を「合気」に置き換えても通用しそうなエピソードである。

しかも、このような技術(手法)が複数の後継者に受け継がれているようなのだ。

なかでもパトリック・マクドナルドというアレクサンダーの直弟子は

「手を 使ったハンズ・オン・ワークの信じがたい技術」を有していた。

著者は自身の体験として、パトリック・マクドナルドのレッスンについて書いている。

「マクドナルド先生自身がものすごく強力な手の持ち主であり、

生徒を続けざまにヒョイヒョイとイスから立たせたり座らせたりするのが好きでした。

(中略) わたし自身は運よく一九七八年に彼自身の手から受けることができました。

わたしは自分でどうなったのか知らない間に立っていたのでした。

すると、自分で知 るより前に、座っていたのでした!」

↑↑↑

おそらく、合氣道と共通のものを持つ分、瞑想的質感が背景にあることは否めない。

考え方(方法)や表現は違うけど、瞑想的質感のパックボーンを絶対持っている。

いろんなことを学べば学ぶほど、

実はそんなに特別なことはなく、背景にあるものはどれも同じなのだということがわかってくる。

「、、でなければならない」とか、「このためには、こうすべきだ。」なんてよく教えられるが、

それはその教えの癖をつくる。

そして、それを教えられる者は鵜呑みにして、

それにしばられる。

最初はそれでいい。

でも、そのうちそれに疑問を持つようになる。

それが、守破離へと進んでいく要因になる。


変化、進歩、発展をするためには、このプロセスが必然になるのだとおもう。


だいたい、同じような体をもった人間が考え、やるのだから、

同じようになっていくのは、当たり前なのだ。

2500年前に、既に提唱された思想を知らずに、あたかも新発見したかのように、

表現することがあるのは、当然あり得ることなのだ。

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