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2013年2月

2013年2月27日 (水)

僕の愛読ブログというよりコラム(デフォルト・モード・ネットワーク)

とても面白い。
僕はこのコラムの大ファンだ。


↓↓↓
http://kishida.biz/column/2013/20130219.html
今回のコラムの内容で気になるところがあったので、下記抜粋。


>目の前に大好物がある。それを食べようとするとき、
>人間はどのようにして食べようとするのだろうか。
>食べるまでの人間のアクションとしては、次の順番が考えられる。

>(1)「大好物に手を伸ばそう」という意思を持つ。
>(2)脳で手を伸ばす準備が始まる。
>(3)実際に手を動かす。

>恐らく多くの方がこの順番は自然だと考えていると思う。
>ところが、(1)と(2)は逆だということが研究結果で明らかになった。
>(伊古田敏夫著「脳から見た認知症」講談社ブルーバックス2012年10月初版)

この内容は、以前クラニオアイキである本について書いたことと同じことだ。

↓↓↓(題名:心が脳を変える)
http://cranioaiki.cocolog-nifty.com/blog/2011/08/post-c437.html

関連する内容としては下記の抜粋の通りだ。

>「人はある行動をするのにそうしようと考え、そのコンマ何秒後に行動をする」
>というところだけをクローズアップして記憶していたし、
>だから、空手において「宇城憲治師に学ぶ心技体の鍛え方:小林伸也」にも
>書かれているが、思った時点と打つ時点のコンマ何秒かの間に攻めるというような
>説明も成り立つ。しかし、それだけだと成新会合気道の
>「相手の打ち得ざるところを打つ」という境地をチャント説明できないのだ。
>この本(心が脳を変える)の説明だと、打とうと思うまえに既にそれまでの流れで
>無意識に打つ準備と行動が起こっていて、そしてその次に自由意志として
>「する」か「しない」かの選択をその時の「関心」でもって行い、
>そしてその意思決定でもって行動をするというのだ。
>当然わずかコンマ何秒かの間に、、だ。

さらに、このコラムの興味深いのは下記の部分は、、、(抜粋)


>作業が終わり脳が休んでいると思われる時になると、この部分をはじめ、
>作業を行っていたときには活動しない部位がどんどん反応し始めたのだった。
>その活動している部分は、自分の感情や他人が何を考えているのかを
>推測する部分が主だった。我々がよく無意識と呼んでいる部分だ。
>人間の無意識は複雑で、無意識を創り出すのには、
>膨大な記憶の整理が必要だ。それを「何も考えていない」と我々が思っている
>間に脳が働いて無意識という領域を作り込んでいるらしい。

(中略)
>無意識のうちに我々は多くのことを行っている。
>人と会話をするのでもいちいち頭で考えたことを口にしているわけではない。
>どちらかというと、言ってしまったことを頭があとから整理して都合の悪いことを
>言えば弁解するし、言い過ぎれば元に戻したりする。

(中略)
>我々は、休んでいるときに、瞑想状態に入って、
>これまでの経験や考えや感情を整理して次に何をやったらよいのかを
>事前に準備しているらしいのだ。だから、大好物を前にしたときには、
>すでに文句なく食べるという準備ができていて、
>手を伸ばそうという意思を固める前に、手を出そうとするのだ。

(中略)
>不思議なことに、この瞑想時に働く脳の部分が働かない状態が、
>アルツハイマー病の脳の状態に一致するという。


つまり、


瞑想の時間を持たずに、無意識の準備が出来ていない人は、
社会生活の中で、他の人や、社会そのものと折り合いをつける準備が出来ず、
なかなか大変だろうし、認知症やアルツハイマー病の予備軍の可能性もあると
言っている。


要するに、


瞑想は、瞑想的な時間は、、人間にとって必要だということなのだ。


だから、


合気道は瞑想的だあるべきだし、

瞑想的なクラニオセイクラル・バイオダイナミクスと

相性がいいのだ。

考え方も質感も。。


スマホに時間を費やし追い立てられている場合ではないのだ。

2013年2月18日 (月)

やさしすぎるボクシングジム


こういう題名のドキュメンタリィー番組があった。


登場する元東洋チャンピオン・新田会長、

彼のボクシングには「体罰」はない。

指導するボクサー達を静かに見つめ待ち続ける。

新田がジム開設以来、公私共に面倒をみているのが西禄朋という若者がいる。

9人兄弟の末っ子、ヤンキーあがりのこの男は強かったが、

新田会長の優しすぎる指導に西は疑心を抱いていた。。。

なるほど、ボクシングという究極の殴り合いを競うスポーツを教える現場ですら、

体罰の善し悪しを問うご時世に沿った内容なのかと思い見ていくと、

ポイントはそこではなかった。

新田会長がボクシングを通して、人間的成長を、、もっというと

人の生き方、死に方にまで考えを及ぼしていて、

そういう哲学でボクシングを教えようとしているということ。


そういうなか、西という紆余曲折した人生を生きてきた若者の

厳しく育てられないと自分は成長出来ないという思い込みで、

新田会長のそういう哲学に反発しつつ、それでもボクシングは続けたいし、

試合には勝ちたいし、、という葛藤の様子を描いていく。

最終的には、引退試合で負けはしたが、会長の考え方を理解するという

人間的成長をテレビ的に表現しておしまい、おしまい。


ぼくは、ボクシングの世界を実際はよく知らない。

ただ、聞いているだけだと、ボクシングは頻繁に競技試合があり、

プロのライセンス制度もあり、上位になればランキングなんかで格付けもされ、

チャンピオン戦になればテレビ放映もある。

競争至上主義で、厳しい世界で、一握りの人だけが成功し大金を得る。。

顔面を殴り合うので命をかけた覚悟も必要に思える。


でも、最近はサラリーマン向けのメタボ対策、

女性向けのダイエット対策としてボクササイズなんて造語も作りだして、

イメチェンを計ろうとしている。


そういう背景で新田会長は、ボクシングは人間的成長を促進させるツールに

なると信じている。

当然理解出来る。

なぜなら、ボクシングを通して、自分も成長したのだろうし、

ボクシングをキッカケに挫折や絶望を克服した人達も見てきたに違いない。


おそらく、ボクシングは合気道と対極の位置にある。


先ず、合気道は競技試合がない。

そしてまた殴り合わない。

合気道は多人数や剣、杖などの武器も想定して、

姿勢は真っ直ぐで、気持ちは弛緩集中している。


合気道は身体能力を高めるために体は鍛えない。

確かに、投げられて、畳に激しく受身を取らなければならない状況もあり、

それはそれでそこそこ体力はつくが、

そんなことより、内部感覚や相対しているときの自分の意識などに注目する。

繊細に奥深く内面を見つめる作業をする。

そこが極めて重要なのだ。


競技試合をやっていたら、勝ちたいなんて言うエゴにかき消されて、

大切な感覚を自分にフィードバックするタイミングを失ってしまう。


そういう自分を知るという作業を丁寧に重ねることによって、

人間的成長は確実に起こるし、

その延長線上には生き方や死に方まで考える思想に及ぶことにもなる。

その哲学は戦い方にも現れる。

それが先ほどいった、中心軸を真っ直ぐにかつ全方向への弛緩集中ということだ。

多人数や、武器をもった敵がいることを想定すると、

きっと、しなければならない思考は、

殺されることを覚悟することであり、

でもその中にあってどう生き延びるかを摸索しなくてはならない。

その為には、落ち着いてリラックスし、冷静に全体を把握する、、そういう考え方というか

感じ方を身に付けなくてはいけない。


上記のこの対極にある合気道の説明をきいて、

合気道を習って強くなれるのだろうかと皆疑問をもつかもしれない。

ただ、これだけは言える、

この内面を見ている作業をしていると、

強さなんかどうでもよくなっていく。

内なる探索がとても面白くなってくるのだ。

現に、あれだけ好きだったプロレス、ボクシングやキックなど

格闘技のテレビをほとんど見なくなった。

それは作られた世界だからだ。

八百長という意味ではない。

あり得ない前提での格闘だということなのだ。


みんな、テレビでボクシングを見ているから、

あのスタイルで殴り合い勝つことが強い条件だと洗脳されている。

当然、四角いリングの中で、2人が向き合うという前提で戦えば、

ボクシング一筋に練習してきた人が強いに決まっている。

でも、そんな前提はこの世の中にはあり得ない。

現実は逃げるスペースもいくらでもあれば、手に握った硬いものは

すぐに武器に変わる。


どんな強者でも、相手が多人数であったり、武器を持っていたら

厳しい戦いになる。


つまり、五十歩百歩ということだ。

強さなんて相対的なものなのだ。

最初の新田会長について、思いをはせた。

競技試合というシステムを前提に成り立っているボクシングの中で、

人間の成長、ひいては、生き死にを考えるのは当然可能だ。


しかし、この社会で上昇志向の強いギラギラした練習生に対して、

人間性や生死感を伝えるのは骨が折れるだろう。


更に突き詰めて考えて行くとどこかで自己矛盾を起こすに違いない。

その点、成新会合気道の教えは整合性がとれている。


そこは保証出来る。

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