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2012年5月

2012年5月28日 (月)

素振り

成新会合気道 一元塾の稽古は定期的には、

木曜と土曜、成田先生が来られるのは土曜のみ。

そこの稽古でのメインは、最近、木剣の素振りだ。

木剣に関しては、


業界最大手の合気道団体でも振っていたし、

この一元塾の稽古でも何回も振っている。

最初は正眼の構えから、正面打ちの振り、

振りの稼働域を広げるために最初は自分のお尻を叩くくらい振りかぶる。

当然、正面打ちなので、、普通、腰の前辺りで剣を止める。

そして、また振りかぶる。

一般的には、これの連続。単調な動作の繰り返し。

そこで、先生からは、繰り返し言葉をもらう。

”止めない”

”終わりを作らない”

”キリなく動く” 

”球を流転させ続ける”

頭で球をイメージして木刀を振る。

でも、剣を腰の前の辺り止めるところで、

また ”終わりをつくらない”

と指摘される。


イメージの球と木剣のフリがリンクしない。

何回も、何回も、何回も言葉をもらっているのに、、、

僕自身は言葉の意味をチャント理解していない。

聞いていないわけではないが、心に留まらない。

おそらくそこがある質感を会得するためのポイントなのではないか。


そのことに気がついた。

イメージは球。

しかし、体は球ではない。

そのギャップがインテンションを止める。

無意識に安易にいつもの体の動かし方を呼び戻してしまう。

つまり、無意識に慣れた運動や思考に戻らないように

意図的に、球に没頭する。

直線的な動きは、”起こり”と”止まり”ができる。

球だとそれがない。


そういうイメージによる動きに没頭する。

それがわかってくると、素振りは退屈ではなくなる。

非常に瞑想的だ。


やっぱりそういうことなんだ。

2012年5月26日 (土)

ミーム

ムーミンではない。

元々は、

ダーウィンの進化論から派生してきた考え方で、

「生物の進化のために遺伝子が存在する」のではなく、
「遺伝子が進化するために生物が存在する」という考えがあるとのこと。

その考えかたを「文化」にもなぞらえて、

生態系にとっての遺伝子に相当する存在を示唆し

遺伝子(Gene)とギリシャ語の「模倣されるもの(Memene)」を掛け合わせて、「ミーム(Meme)」

という造語が作られたようだ。

要するに、それは「生物の遺伝子」と対比して「文化の遺伝子」という概念として作られた言葉なのだ。

そのミームという考え方に興味をもった。

たとえば、神社仏閣でのお参りという習慣は、ミームの一種で、

日本古来の風習で、模倣される力が強いミームだということ。

模倣される力が強ければ、それは「常識」となっていき、

多数の人間で共有されるようになった常識は、「文化」と呼ばれることになる。

人間は模倣の上手な種であり、

思想、哲学、科学、宗教、信念、芸術、各種文化を

人から人へ伝ええいく。

それを媒介している情報が「ミーム」。

つまり、人間を人間たらしめているのは複数のミームなのだ。

自己は都合のいいミームは受け入れ、都合の悪いミームは拒絶する。

複数のミームがより自己(私)を強化していく。

複数のミームから、心、信念が形成され、

自らを成長させ、場合によっては、自らを殺しもする。


そのうち、思想、宗教、イデオロギー、芸術、という文化的遺伝子を継続する為に

器としての自己(脳、体も含め)が存在しているような錯覚に陥る。


でも、ミーム論では、まさにそう言っているのだ。

それは、奇跡的に生をうけた存在としては、あまりにも切ない考え方だ。


そのような、ミームの支配からの逸脱こそが、人間の存在としての幸せを


得る方法ではないかとも思える。


その考えは、

瞑想における、自分の中にあるマインドを観照することによって得られる

悟りや涅槃の考えと類似する。

そういう意味では、合気道もクラニオセイクラル・バイオダイナミクスもミームだということだ。


そのミームは僕自身を強化もし、そのミームを伝搬させるために


僕自身を殺してでもその普及伝搬に努めることをするかもしれない。

しかし、それを逸脱することが、幸せだという矛盾にもぶち当たることになる。


Youtubeでミームについて学者が講演している動画を発見した。


その中に、蟻が無意味に植物の葉の頂上へ向かう動機として、脳を寄生虫に


支配されているということを例えにしてミームを解説している。


とても面白い。

↓↓↓
http://www.youtube.com/watch?v=_LKXLhetYsI


2012年5月21日 (月)

表面的なことに誤魔化されてはいけない。

クラニオセイクラル・バイオダイナミクスというワークにどっぷりつかり、
最近、当たり前だと思っていることが、今思うと、最初のころは
頭では理解するのに混乱してなかなか受け入れるのに時間がかかったことを
思い出す。


最近セミナーのアシスタントをさせてもらっている状況で、
勉強をしているメンバーの人たちと食事をした。


皆さん、さすがにこのワークを習いに来るだけあって、
今までにも様々なワークを習ってらっしゃる。


リコネクション、クァンタム、シータ、レイキ、、、
エネルギーワークのオンパレード、
僕自身はそういうワークを習ったことがないので、いろいろ質問をしたり、
違いなどを軽く聞いてみたりした。

みんなちょっとずつ違う。背景とする思想が違ったり、
宗教観が違ったり、、、、

コアなところが同じなのかちがうのか、、でも、そんなところまではわからない。。


以前、オステオパシーの有名な先生が日本きて講演したとき、
クラニオセイクラル・バイオダイナミクスはエネルギーワークではない。。
と言っていたらしい。(真偽はわからない。)


でも、うちの大阪の女性の先生は、エネルギーで生かされている人間をワークする
クラニオセイクラル・バイオダイナミクスがエネルギーワークでないわけがないと言っていた。
(記憶違いかもしれない。)


つまり、その手技の教える場では一言もエネルギーの概念を教えなくても、
整体でも、鍼灸でも、マッサージでも、指圧でも、カウンセリングでも、
もっと拡大解釈すると、人間関係、会社、社会などシステムが働くところの場は全て、
ベースはエネルギーが働き、そこからのアプローチが有効なのだ。

ただ、思想や文化の違いで、アプローチが違うだけ。

クラニオセイクラル・バイオダイナミクスは、オリジナルがオステオパシーという医学
なので、解剖や骨や膜などの概念も多く含まれる。
しかし、中核にあるものは、ブレス・オブ・ライフという生命観や、ポーテンシーという
生命エネルギー的表現もあり、現代教育を真面目に受けてきた人たちに
とっては、自家中毒を起こしかねない理屈になっている。


そこで、何かエネルギー的な意図的テクニックを教わるのかというとそういうことではない。
ある質感を感じることを教わるのだ。
教わるというよりも、その場を体験するということになる。
それが再三お伝えしている瞑想的な質感なのだ。


そして、そのことが僕にとっては全てなのだ。


世界には、考え方の数だけ技(エネルギーワークや心理テクニックも含めて)が存在する。
感じ方も様々なので、同じ名前の技でも、やる人によってその質は変わっていく。


様々な問題に対して、何を信じて、何を目標にして、勉強、習得していけばいいのか。。


或人は、世の中で評価される魅力的な手技をより多く手に入れるようにするかもしれない。

新しい思想を習いに行くかもしれない。

でも、そのやり方はキリがない、千の問題に対して、千の技が必要になる。

その人は常に自分に満足が出来ず、焦りの感情を持つことになる。

それは、合気道などの武道や格闘技にもいえることなのだ。


今言えることは、

瞑想的な質感のもと、一元を探求する、、ということだけだ。

2012年5月14日 (月)

瞑想の考察③

知り合いの整体の先生のところへ行って、
今回の瞑想体験の事を話した。

そうするとジル・ボルト・テイラーなる脳科学者の脳卒中の体験を語る
講演動画(youtube)を紹介してくれた。

瞑想の体験の内容、言葉が類似しているからだというのだ。

話した内容は、

「who Is In」という公案の切り口による瞑想の体験として、

・ある質感が体を取り囲む。
・全体を同時に感じる。
・静寂を感じ、その中に、安心感、安定感を感じる。
・とても心地よい。
・それを感じながら頭はクリアで冷静にそれを見ている。
・目の前が明るく光輝いている。
・足を組んでいる痛みなどを感じない。
・そのような感覚が波のような強弱をもって現れる。
・将来の不安やなど現存しているのだがその瞬間は幸せでいられる感じ。
・その感じが弱くなるときに、いろいろなマインドがやってくる。
・そして、それも冷静にみることが出来る。。。

などなど。。


見て驚いた。


ジル・ボルト・テイラー博士の体験を語る内容で、

脳卒中という器質的な障害が左脳側に起こることで、
つまり、右脳が成しうるハタラキなのだといっている。

そして、この奇跡的事件で、
僕の体験よりも遥かに深い体験をしたのだ。


我々がこの体験をする健全な方法として、瞑想が存在するのだ。


動画の最後のほうで、

人間は脳全体で機能して初めて、より高みに行くことを示唆している。

世の人々が、

右脳と左脳との働き方を、自ら選択して、ちょっと右脳寄りに生きることで
より人類は幸せになれると言っている。


脳のことは言っていないが、お釈迦さまがいっていることと同じだ。

十牛図でもそういうことが表現されている。

別にお経を読まなくても、難しい本を理解する必要もない。


瞑想でこの質感を体験すればいいだけなのだ。


↓↓↓↓(日本語字幕があるので是非見てみてください!)

http://www.youtube.com/watch?v=ldSoKfFYKqM

http://www.youtube.com/watch?v=qd1hvCHnMX0&feature=relmfu


1人で体験するのが瞑想ならば。
2人で体験するのがクラニオセイクラル・バイオダイナミクスだ。


クラニオセイクラル・バイオダイナミクスとは2人でする瞑想そのものだ。

ちょっと、こじつけすぎ!?
でも、体験した人はみんな同じことを言っている。


2012年5月 8日 (火)

瞑想の考察②

瞑想リトリートは、あまりにも強烈で、

これからの人生が変わるかもしれないと予感させる。

なんていうと大げさに聞こえるかもしれないが、

決してそんなことはない。

現に、元の日常生活に戻っても、

元の通りではない。


その「Who Is In」という瞑想は

本当の禅の公案の方法は知らないが

元を辿れば、禅の公案だと聞く、

でも、本当に シンプルでとてもよく出来たシステムに

作られていると思う。


簡単に言うと、

「あなたは誰ですか」と向い合った人同士が

問いかけあうという単純なものだ。

ただそれを連続して1日中続けるというわけではなく、

途中に、他の体を動かす瞑想などを組み入れるなど、

それなりの考え方やノウハウがあるようだ。

前回ブログの瞑想の考察でも書いたように、

公案という問いに対して、

思考の切り口で瞑想に入るわけだ。

これは、やってみると極めて合理的だと、必ず体感する。

なぜなら、自分の中の自分は、考え方によっては、

すぐに費えてしまう限界があり、

感覚や感情を含めると、無尽蔵な表現も可能になる。

この退屈ともいえる繰り返しを

いかにインテンションを保つかがカギとなる。

よって、ファシリテーター側も瞑想者の負担を

負担と感じさせないようにエンカレッジしてくれる。

つまりそういうシステムなのだ。


瞑想とは、、とググってみても、

ありふれた沢山の種類の瞑想が出てくる。

読んでみてもよくわからない。

体験してみないとわからないだろう。

1人でやって瞑想の必要性がわかる人は稀な人だと思う。


瞑想とは、、

自分を観察している自分に気づくことを体験すること。

そのために、思考、感情、感覚、運動(体)は欠かせない。

それを観照していく。

そういうことを促して気づかせてくれる。

「Who Is In」はその気づきを得るためには

最適だと思う。

言葉で書くと簡単で軽く聞こえる。

しかし、全然あなどれない。


おそらく、合気道やクラニオセイクラル・バイオダイナミクスにも

良い意味で影響する。

間違いない。


剣術者が禅を好んでいたのは、

よくわかる気がする。


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