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2011年7月

2011年7月26日 (火)

「猫の妙術」 OSHO


インドのマスターにOSHOという人がいたということである。

そんなに詳しくないが、その人の元に行った人たちが、現在の日本における

様々な癒しのワークの普及に関わったと聞く。


クラニオセイクラルバイオダイナミクスもそのうちのひとつである。


そのOSHOが話した内容がたくさん出版されている。

読む物すべてが、非常に説得力のある内容となっている。

その中に「並外れて普通の猫」という題名のものを見つけた。


よくよく読んでみるとこれは

日本の剣の極意を記したとされる丹羽十朗左衛門忠明の「猫の妙術」を

OSHOなりに解釈・翻訳した内容となっている。


インドのマスターの思想と日本の剣の極意が一致しているということだ。

AMAZONの書評で成田先生の「円和の合気道」についてこの「猫の妙術」を

例えに出して書かれていたが、


まさに、成新会合気道の教えを表したものである。

*****************************************:

昔、勝軒という剣術家がいたが、彼は家に住み着いた獰猛なネズミに困り果てていた。

このネズミは昼日中でも巣穴から出てきて、ありとあらゆる悪さをするほどの大胆さだった。

勝軒は自分が飼っている猫にこのネズミを捕らせようとしたが、とても太刀打ちできるものではなく、

逆に噛みつかれ、悲鳴を上げて逃げ出す始末だった。そこで剣術家は近所の家で飼われている

ネズミを捕る技と勇気に特に優れているという猫を何匹か借りてきた。

この猫たちもネズミを捕まえることはできなかった。ネズミは隅に追い詰められると、

猫たちが近づくのを見ていて、一匹一匹に猛烈な反撃をした。

猫たちは恐れをなしてほうほうの態で逃げ出した。
 師匠はがっかりして自分でネズミを退治しようとした。

木刀をとってネズミに近づいたが、さすがの熟達した剣士の技でも歯が立たず、

ネズミはまるで鳥か稲妻のように宙を飛んで、木刀をめがけて飛びかかってきた。

勝軒がその動きに応じるよりも先に、ネズミはやすやすと彼の頭の上を飛び越してしまった。

彼は大汗をかいて追いかけたが、とうとう最後には諦めるよりほかになかった。

彼は最後の頼みの綱に、その神妙な技でネズミ捕りの名手と評判の

高い猫を近所から借りてくることにした。

この猫には、それまでネズミと戦わせるために連れてきたほかの猫と比べて、

なにひとつ特別なところはなかった。まったくありふれた、どこにでもいるような猫だった。

剣術家はあまり期待していなかったが、この猫をネズミがいる部屋に連れていった。

猫は部屋にはだれも不審な者はいないかのように静かに悠々と入っていった。

ところがネズミのほうは、相手が近づいてくるのを見ただけでひどくおびえてしまい、

まるで凍りついたように、部屋の隅で動かずにじっとしていた。

猫は平然とネズミに近づいてその首をくわえて出てきた。

 黒猫が前に進み出て尋ねた。「私は武術の技では誉れの高い名家に生まれました。

子猫のころから将来はネズミ捕りの名人になるべく鍛錬してまいりました。

七尺もある屏風を飛び越すことができますし、ネズミしか通れないような穴をくぐる技も心得ています。

ありとあらゆる離れ業を演じることができます。

またネズミに私がぐっすりと眠り込んでいるかのように見せかけて、

そばに近づいたら飛びかかるという知恵を使うこともできます。

天井を走るネズミでさえ私からは逃れられません。

今日、あのしたたかなネズミの前からすごすごと引き下がったことは不名誉のきわみです。


くだんの老練な猫は言った。「おまえが習ったのは小手先の技にすぎない。

おまえはつねに敵とどのように戦うかということに腐心している。

いにしえの師家が各種の技を編み出したのは武道を極める適切な道筋に親しませるためだった。

そしてこの道筋は本来は単純で効果的なもの、武道のあらゆる極意の要諦であるはずだ。

師家に従う者は彼の原理をつかみそこね、技の賢さや小手先の技術をいかに磨くかで

頭がいっぱいになってしまう。それでも目的は達せられ、知略も格段に的確な進歩したものになろうが、

帰するところそれがいったいなんになるのか? 理知とは心の働きにほかならないが、

それは道に調和していなければならない。後者がなおざりにされて、

たんなる賢さだけが目的とされたなら、それは道から外れて誤用されることになってしまう。

これを武道の極意としてよく心得ておくがいい」


虎猫が前に進み出て自分の観方を次のように述べた。

「私の思うところ、武道の極意は精神(気、中国語ではチ)にあります。

私は長らくこれを養って鍛えてまいりました。私はいまや天地を満たすほどの

勢いのある精神を備えるにいたりました。敵に対面したときには、

すでに気迫で相手をしのいでいますから、実際に戦う前から私の勝利が決まっています。

どのような戦法をとるかを意識してもくろんでいるわけではなくて、

それは情況の変化に応じて自然に出てくるのです。

例えばネズミが天井の梁を走ったとしても、私が気迫を込めてにらみつけると、

相手は自分から落ちてきて捕らえられてしまうのです。しかし、

あの正体の知れないしたたかなネズミは影も残さずに動いていました。

とても私の及ぶところではありませんでした」  

古猫はこれに次のように答えた。

「おまえは自分の精神力に最大の働きをさせるすべを心得ているが、

その心得ていることそのものが妨げになっている。おまえの強い精神力は敵に対立しているが、

自分のほうが相手よりも強いことに確信がもてない。相手のほうが優っている可能性もつねにあるからだ。

自分では活発な浩然たる精神が天地を満たしていると感じたとしても、

それは気迫そのものではなくて、その影のようなものにすぎない。
それは孟子の言う『浩然の気』に似ているようにも見えるが、実際にはそうではない。

世に知られた孟子の浩然の気(精神)は輝かしく啓発的なもので、それゆえに気迫に満ちているが、

おまえは情況に応じて気迫を得ているにすぎない。もともとこの違いがあるので、

おのずとその用い方にも差が出てくる。一方の大河は休みなく流れているが、

もう一方は大雨が降ったら洪水になるにしても、それ以上に強い激流に出会うとじきに力尽きてしまう。

『窮鼠かえって猫を噛む』と言うではないか。

隅に追い詰められて、生死を賭けて戦っているときに、

死に物狂いの相手は少々の傷など受けても当然だと覚悟している。

この精神的な態度が襲ってくるあらゆる危険を寄せつけないのだ。

その全存在が戦う気迫(精神または魂)の塊と化しているから、

その鋼のような抵抗にはどんな猫でもかなわない。」  

今度は灰毛の猫が静かに前に進み出て言った。「あなたがおっしゃったように、

どれほど強い気迫であろうとそれには影が伴っていて、

それがどれほどかすかなものであっても、敵はけっしてこの影を見逃さないのです。

この考えに基づいて、私は長らく自分を鍛錬してまいりました――敵を威嚇しないように、

戦いを強いないように、むしろ柔軟な和の心をもつようにと。敵が自分よりも強いとわかったら、

私は自分をしなやかにして、相手の動きについていきます。

まるで石を投げつけられた暖簾がゆらゆらと揺れるようなものです。

どんなに強いネズミでも戦うすべを見つけられません。

しかし、私たちが今日、相手にした あのネズミは手強いやつで、気迫に負けるということもありませんし、

私のしなやかな気の遣い方にも揺るぎませんでした。

まったく正体がつかめませんでした――あんなやつに会ったのは生まれて初めてです」   
   
古猫は応えて言った。「おまえの言うしなやかな気迫は自然と調和していない

――それは人工的なもので、意識的な心が考え出したもくろみにすぎない。

このような手段によって敵の積極的で熾烈な攻撃精神を制しようとすれば、

相手はただちにおまえの心のなかのわずかな動揺でも察知してしまう。

わずかでも動揺があったら正しい知覚力や動きの機敏さが損なわれてしまう。

なぜなら、それが本来の自然で自発的な動作の流れを妨げてしまうからだ。

『自然』に、その物事を 成就する神秘的なやり方を発揮させようとするなら、

おのれ自身の考え、もくろみ、意図を捨て去るしかない。  

自然の成り行きに身を任せ、内側のそれに自由に振る舞わせるなら、

相手に察知されるような影も、形跡も、手がかりも生まれてこない。

そうしたらおまえに抵抗できるような敵はひとりもいなくなる。

しかしながら、私はおまえがこれまでに経験してきた修練がなんの

役にも立たないと言っているのではない。

いずれにしても、道はそれが収まっている器によって示される。

技術的な工夫にも妥当性(理)があるし、精神力も体のなかでそれなりの威力を発揮し、

それが自然と調和したときには、周囲の変化に完璧に呼応して働くだろう。

柔軟な精神がこのように保たれるときには、体と体がぶつかり合う次元の戦いは終わりを告げて、

岩をも打ち砕くことができるようになる。  

だが、ここにそれが顧みられないかぎりすべてが本末転倒になってしまう本質的な事柄がある。

それは、自意識の考えをみじんも抱かないということだ。

自意識が心のなかにあったら、おまえのすべての行いは我意から出たもの、

人為的なトリック、道と調和しないものになってしまう。

そうなれば人びとはおまえのやり方に従わないようになるし、

心のなかでは敵対心を養うようになる。

もしも心が『心がない』(無心)と言われる状態にあるとしたら、

おまえは人為的なもくろみにいっさい頼ることなく自然と同調して振る舞うことができるだろう。

だがしかし、道はあらゆる制限を超えており、私のこのような評釈も本来が無尽蔵

であるはずの道には遠く及ばないものである。

以前、隣村にいつも眠りこけてばかりいる猫がいて、

獣としての生気を少しも示さず、まるで木に彫った作り物のようだった。

だれもその猫がネズミを捕るところを見たことがなかったが、

その猫が歩き回るとネズミたちは恐れをなして一匹も目の前に出てこなかった。

私はあるときその猫のもとを訪ねて理由を尋ねた。

だが、その猫は答えてはくれなかった。四度も同じ質問を繰り返したが、

それでも黙っていた。その猫は答えたくなかったのではなくて、

実を言うと、なんと答えたらいいかわからなかったのだ。これからわかることは、

知っている者は一言も語らないし、語る者はなにも知らないということだ。  

その老猫は自分のことばかりか周囲のことまでも忘れていた。

計らいのなさという最も高い境地に達していた。あの猫は一匹たりとも殺さない武道の真髄を悟っていた。

私などあの境涯にはとうてい及ぶべくもない。だが、一言も言ってはくれなかったにせよ、

私はその公然の秘密を会得することができた。ただ目の前にいるだけで、

この猫は並外れて普通の猫であるという単純な事実を知ることができた。

ほかにはなにもいらなかった。  

自分のありふれた現実を生きる者は、タオ(道)を生きているから、

あらゆることが可能になる。それ以来、私はごく当たり前に生きてきた。

学んだことなどはすべて忘れてしまった。実際、私は『個』としてはいなくなり、

自然がなんの差し障りもなしに働くようになった。

これこそが無為の為、無活動を通じた活動というものであり、これこそが私の秘密なのだ」


(OSHO Times International 日本版104号/発行Osho Japan) 2004
(オリジナルが日本の古典なのですが、問題があれば削除するようにいたします。)

「円和」

この言葉を成新会合気道では盛んにつかう。


大手合気道団体でも、同様に「和合」という言葉はある。


そしてそれを説明する引用として下記文章を諳んじられる。

  来たれば即ち迎え、去れば即ち送り、

  対すれば即ち和す。

  五五の十

  二八の十

  一九の十

  是を以て和すべし。

  虚実を察し、陰伏を知り、

  大は方処を絶ち、細は微塵に入る。

  殺活機にあり、変化時に応ず。

  事に臨んで心を動ずること莫(なかれ)や。

どうも中国の古典らしい。 


鬼一法眼という武芸者が源義経に授けたということである。


ちょっと難しい。


チャント解説してもらえないとよくわからない。

おそらく、成新会合気道の 「円和」 「円転無窮」 等の教えと同じだろう。。


そして、成新会合気道では、その質感を教わる。


教わるが感得しないと何をやっているのかわからない。


そういう意味ではこれもとても難しい。


いずれにしても、


相手と敵対して技を行うのではなく、相手と和合、円和して技を行う。


相手が自分と一体になっているので、技がかかりやすいという理屈だ。


でも、どのタイミングで円和するのか、ただリラックスしていれば円和できるのか、


相手に付け込まれない為にはどうするのか、、、


そういう、円和するための条件もいろいろ教わる。

詳しく習いたいのであれば、成新会合気道の門をたたくべきだ。


大手合気道団体で満足している場合ではない。


2011年7月20日 (水)

被災地ボランティア


石巻に行ってきた。

なぜか行かなければならないという、一種使命感なんかも働いた。

クラニオセイクラルバイオダイナミクスの大阪の先生が

企画するヒーリングイベントの手伝いなどをした。

数日ではバタバタして特に何か出来たという実感はわかない。

印象としては、ハエの多さと、鼻に付く、魚の饐えた臭い。

牡鹿半島のきれいな海、空、、、そして無力感。

少しだけ、ボランティアの現地での状況が何となくわかった。

どういうことかというと、

かなり自主的、自律的に動かないといけないということ。

自分でドーパミンを出してやらないと、やりきれない感じ。

第一は被災者、被災地のために働くということは大前提なのだろうが、

自分自身もその活動によって何か得るような、、

自分を見つめ直す作業のような、自問自答を続けながら、

とにかく活動していく。

そういう個人やグループが全国から集まってくる。

ユニークかつユーモアのある活動もある。

ボランティアグループによっては、

首をかしげる内容にもなっているかもしれない。

ありがた迷惑なボランティア活動もあるかもしれない。


でも、長期的にこのボランティアを続けるためには、

ドーパミンを出し続けるには、そういう手法も必要だろうと思う。


自分が良かれと思って、多少お仕着せでも、被災者、被災地の為を

思って企画し、実行する。反省をしながら、変化していく。

そういうことの積み重ねが重要なのだと思う。


被災地は、震災が起こる前と全く同じ状態には復元できない。

あまりにもショックな出来事を経験した被災者を、癒し、牽引する。

こういうエネルギーをもったボランティアの人たちの支えのもと、

新たに成長した街を作り上げていくしかないのだ。


2011年7月12日 (火)

愚痴聞き屋

先日の日曜日深夜のNHKで 「愚痴聞きや」というドキュメンタリー番組を

やっていた。

若者2人が深夜から明け方まで心斎橋商店街のシャッター前に座り

無料で道行くひとの愚痴を聞く。

無料ということからか、お客は結構多く、常連もいるようだ。

中には挑発的な発言をするお客もいたりするが、

ただただうなずいて聞いているだけ。

2人の決め事は、お客を絶対に否定しないこと。

そういう難しいお客も、

そうしているうちに、一人で話し、一人でプロセスし、一人で納得していく、、

という様子をその番組は映し出している。


素晴らしい。すこし感動する。


しかし、この若者2人は何が目的でこういうことをやっているのだろか、、

結構辛い作業だと思うのだが。

2人のうち1人の若者の生い立ちも、ほんの少し紹介していたが、

その生い立ちがこの辛い作業へのモチベーションになっていると

というとこまではたどり着かない。

要するに、複雑な家庭で育ったということと、

楽しくない青春時代を過ごしたというよくある話だ。

このドキュメンタリーの中では、そこまでは掘り下げておらず、

ただ盛り場でのそいいう不思議な若者の出没と、酔っ払いや

ギャルの愚痴を聞く、ホンワカした雰囲気を前面に出している感じ。


しかし、この若者のやっていることは、

まさにカウンセリングであり、クラニセイクラルバイオダイナミクスと

同じなのだ。


癒すのは、治癒させるのは誰でもない本人なのだ。

自分1人で話すことで、自分に向かい合い、

それによる、自分の変化のプロセスを感じ、

自分で気づき、納得する。


若者のやっていることは、ただ、そばにいて、共感するだけ。


しかし、それが難しい。

普通であれば、聞いている方もエゴが働き、

いろいろと余計な介入をしたくなる。

無料で、皆が寝ている時間に、普通であれば聞きたくもない愚痴を聞く。。

どうやってこの若者はその行動に至ったのだろうか。

いろんな意味で、非常に興味深い。


こんなことをやっている人が他にもいるのかと思い、

ググってみたら、以外に沢山引っかかった。

既に商売にしている人もいるみたいだ。

そのきれいなホームページなども読んでみると、

ありきたりな表面的な表現がしてあったり、けっこう高額だったりで、

一気にテレビドキュメンタリーの「愚痴聞き屋」という番組が醸していた

ほのぼのとした雰囲気とは違う、なにか裏切られたような気分に

なってしまいました。


反面、「愚痴聞き屋」でそんなに繁盛するなら、

ストリート「Who Is In」でも出来るのではないかという

スケベ心も湧き起る。

そういえば、昔 「殴られ屋」なんて人もいたなーと思い出す。

またググってみると、1億5千万の借金を抱えて、人生諦めずに

歌舞伎町で殴られ屋を始め一躍有名になった人で、

名前も 「晴留屋明(ハレルヤアキラ)」なんて、出来すぎですな。


まとめに入りますが、

人って、愚痴など、不満、不安をいっぱい抱えているものなのです。

でも、それをそのままにして誤魔化さないで、向き合う作業をすると

納得できるのです。


腑に落とせるのです。


覚悟が出来るのです。


そして、「殴られ屋」などやってでも、生きていこうという気力が

湧いてくるのです。

きっとそういう人に触発される人も出てきて、周りも勇気が湧いてくる

のだと思います。

だから、やるべきなんです。


たぶん。


ちょっと、自分に言い聞かせてます。


2011年7月 5日 (火)

顔面ワーク


クラニオセイクラルバイオダイナミクスでは、顔面骨に対してとても深い施術を行う。

骨の一つ一つの位置、縫合、動きなんかを認識し、どういう風に動きを感じ、

どの方向に働きかけるか、解剖学的なことを教わる。


でも底流にはブレスオブライフのポーテンシー、、、とかいうエネルギー的な発想や、

ミッドタイドを感じ、ステートオブバランスを知覚する。。なんていう感覚的なことも教わる。

アメリカ発祥のオステオパシーが、万人が認めるアカデミックな医学として認められる為に、

そして大学という教育機関を設立するためにすこしオカルトっぽい発想に蓋をし、

後付けで、分析的、学術的な見解を付け足していったのではないかと

勝手に想像をしてしまう。

もしそうだとして、現在このバイオダイナミクスという流れが途絶えず、

現在 関西の女性の先生に教えてもらえている、、

まさに奇跡的な巡り合いだ。 

このセラピーは、当然ながら日本では国家資格はない。

また、厚生労働省はこれを医学として認めることはできないだろう。

逆に、もし国家資格化したら一番大切なもの、を排除するにちがいない。

それは、先ほど話したブレスオブライフやなどといった怪しい、あやふやなもの。

でも、普遍的なもの。


その、あやふやな、不確かな、普遍的なものをその関西の女性の先生は

腑に落とすように教えてくれる。気づかせてくれる。


そいうものをもっと早くに知りたかった。

こういうことを学べる場が、日本ではどのくらいあるのだろう。

現在の日本教育の流れで、16年間学んでも、それを教えられる

ようにはならない。


話をもどして、

顔面の小さな骨、、篩骨(シコツ)、鋤骨等、を認識してワークする、、

このクラニオセイクラルバイオダイナミクスを最初に考えた人って、

天才ですな。

2011年7月 4日 (月)

Who Is In


「Who Is In」 あなたの中に誰がいますか。

2人がペアを組み、交互にこの問答を繰り返していくという、、そういう瞑想ワークがある。

禅の公案から由来しているとのこと。


数日間泊まり込みでそれをやり続ける。

初めのうちは、自分の現状などを話したりする。

内面的なことを目を背けずに向かい合い表現していく。

そのうち、話すことがなくなってくるので、

次なる手法は瞬間、瞬間に湧き起る、考えや感情をランダムに

脈絡もなく、無表情な相手に語りかけていく。


それでも、話すネタがなくなってくる。

言葉が詰まるような状態がおこる。。思考がループしている状態だ。

何も思いつかないので焦りなんかが出て来る。

そういう時は、その内面に湧き起こった「焦りの感情」を表現する。

延々と内面に起こったことを拾っていく。


自分の内面の過去や未来のストーリだけの問題と思いきや、

ペアとなっているパートナーの話す内容、感情に触発され、

怒りや不安や悲しみなど感情をぶちまけている別のペアの

話し声や雰囲気にも影響され、外にいる犬の鳴き声さえも、感情や思考に介入してくる。


何回かそういう状態を体験していくうちに、思考が麻痺していくような、

頭が真っ白になっていく状態になってくる。

それでもまた、思考と感情を拾い、絞り出し表現していく。


でも、ある時点で、

全身が緩み、お腹が気持ちよく、

まったく思考がはたらかない状態になる。

安心感というか、なにか幸せな感じ。

周りのいろんな状況も影響されることなく、あるがままに受け取れる。

一瞬一瞬がクリアな感覚。 静寂の中にいる感じ。

そういう瞬間が訪れる。


そして、フッとよぎるものがある

今まで、自分の中の感情や思考をみつめてきた、自分とは何なのか。。

この瞑想ワークのプロセスは社会生活の中での癒しのプロセスを凝縮したものだ。

クラニオセイクラルバイオダイナミクスはこのプロセスをダイアログの中に活用していく。


クライアントのイシューな感情を体に戻してあげる。

「今ここ」の感覚を知覚してもらうように体にもどしてあげる作業をし、

不必要な思考を気づいてもらう。


自分の良いところだけでなく嫌なところも一切合切、目を背けず向かい合い

受け入れる、、そう導いてあげる。


それ無しに、癒し/治癒はあり得ない。

クラニオセイクラルバイオダイナミクスはそこを目標とする。


実を言うと、合気道も自分に目を背けて誤魔化していると上達は望めない。


同じだということだ。

間違いない。


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