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2016年10月29日 (土)

今後のブログはこちらに掲載します。


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2016年10月21日 (金)

私とは誰か


"私"というものは何かと考えてみた。

少なくとも、身体だけではなく、心というものとセットで私だというのは誰の反論もうけないだろう。

この合気道をやっているからこそ私であることを意識しない私、

つまり、無意識の領域の私を切実に感じる。

そして、圧倒的にその無意識の領域の方が割合が大きく、身体自体は大方そちらに属することを実感する。

ここの合気道は、
想わざる技がでることを目標に稽古する。

意識的に攻撃することが、いかに相手に
察知されるかを学ぶ。

意識的な攻撃とは、すなわち私が相手に勝とうという意図で、合理的思考のもとに放たれる攻撃のこと。

それだと、すぐに相手にわかってしまう。

なので、それを凌駕するために、さらに力、スピード、反射神経、テクニックを駆使する工夫がおこなわれる。

強さの競争が、うまれる。

ここの合気道はその直前の領域で起こる、”あるもの”に対応する方法を教える。

つまり、無意識の領域で技が出るように稽古していく。


ここ何年か出版された脳科学の本になどに、脳の中には"私"に相当する箇所がないということが書かれているものがある。

これに関しては、何回もブログに書くくらい
自分の中では、画期的な意味を持つ。

脳の構成に関して、
私という部分がないならば、
パソコンのマザーボードの構成とそんなに変わらない。

つまり、構成の役割は、
インプット、アウトプット、メモリー、CPU
となる。

仮に私という概念を持たすなら、それらを統合するAIのようなソフトが必要になるということだ。

そして、そういうことに共鳴する話として、

よく耳にする禅の思想の無とは、

つまりは、
"私"というものは無いということを言っている。

科学の発達していない1000年以上も前に、瞑想を極めて、このことをわかっていたということだ。


つまり何が言いたいのかというと、


私とは、


在るけど無い。

無いけど在る


先ほどのパソコンと同様で、
ハードウェア的にはつまり実質的に、
"私"は無い。

何らかのソフト的なもので、統合され
"私"は存在する。

つまり、私とはバーチャルなもの。

細かく分析的に見ても無い。

でも、俯瞰して、全体的に観れば在る。


そういう私が、振り返って、リアルな自分の身体を見た時、自分の事なのに圧倒的に知らないことの方が多い。

知らないけど、、さも分かったかのように、様々な、仮説や物語を作っていろいろ理由付けする。

それでも確信できなくて、不安だから、より強化したい。

より外から知識を集めたいし、そうすれば補強できると考えている。

それでも、まだ不安は解消されない。

いまのほとんどの、格闘技や武道はそういう考え方でやっている。

そして、ここの合気道はその真逆のことをやっているということなのだ。

だから、"想わざる" なのだ。

それは、稽古のなかで無意識側にいることを模索していく。

具体的にはどうするのか、

同じ型稽古であっても、そういう不安の中に
身を置いていく。

常に、次に何が起こるかわからない状況でいるようにする。

そして、知らない事を受け入れる。

そういう稽古をつづける。

続けないとすぐに、いつものやかましい思考に引き戻されてしまう。

思考とは頭のなかの余計なおしゃべりのことをいう。

受け入れた時にのみ、静寂を感じることができる。


実際、正しいか正しくないかは別として、
途中で思考停止しないレベルの一貫性のある、矛盾のない
”私”とか、心とか、そういう構造というか考え方を理解すると、
ここの合気道はとても腑に落ちて、習得するのに役にたつ。


自分というものを知ろうとせずして、

つまり、自分とは何かという、答え無き問いを続けずにして、

ここの合気道の本質には近づけない。

最近そんな気がして仕方がない。

2016年10月17日 (月)

答えなき問いを考えつづける。それが真理。

成長する為のプロセスとして、答えなき問いが存在することを認識すべきだ。

大概、みんな悩み苦しんでいる時、簡単で明快な答えをもとめる。気持ちよく感動すら与えるものとしてその答えを期待する。

しかし、それは思考のトリックだと気づく時がわかる時が来る。

そして、そういうことを外に期待して、依存している限りまず100%"それ"を得ることはできない。

100の技より1000の技を、ここではダメだからあそこ、というようにより多くの技を得ることが有意義だと解釈して、それを目指してきた人は、その思考の癖がぬけないかぎり、つまりそのことに自分できづかなければ、本質を得られることは難しい。

確かに、答えなき問いは、その中に矛盾もあり、多面多様的であり、トリックもありで、
考えるのが面倒臭い。でも、考えつづけるのた。

考えるな感じろ、でも思考停止するな!

この合気道はそういう矛盾した事をやっている。

でもその質感の中で、何か変化がある。

とても繊細な変化だ。

その些細な変化を大切にする。

その積み重ねのみが成長を、促す。

間違いない。

2016年10月11日 (火)

日常で考えること。


近くに狭いが自転車が2台くらいは通れるくらいの道がある。

そこは意外に交通量が多く、
よく進行方向から自転車がやってくる。
当然すれ違う形になる。
ここでとても面白いことがわかる。

当たらないように、相手を意識すればするほど自転車のハンドルが当たりそうになる。

時には、心に反して近づいていくことすらある。握ったハンドルがプルプル震え、立て直そうとする勢いで反対側に傾き、その反動でさらに相手側に接近し、前にも増して危険な状態になる。

何回かすれ違っていると、だんだんわかってくることがある。

それは、相手を意識しないほうがそういうことが起こらない、、ということだ。

逆の言い方をすると、相手に当たらないように考えれば考えるほど相手に当たりそうになる。


同じようなことが書かれた宮本武蔵の逸話がある。

兵法上達の方法の話で、

武蔵がある武士に畳の縁を踏み外さず歩けるかと問うと、その武士は当然歩けると答える。ではその高さが1間(1.8m)であればどうかと問うとその武士は難しいと答えた。
では、その縁の幅が三尺であればと武蔵が問うと簡単だと答える。
では、今度はその三尺の縁を姫路城の天守から一里先の山に掛け渡したらどうかと問うと、その武士は無理だと答えたという。

そこで武蔵はこう答える。修行が足らないからだ。本心がしっかり定まっていればこのようなことはない。要するに心の持ちようなのだと。。

つまり、平常心の事を言っている。

そりゃそうだ、、とこれを読んだ人は思うだろう。

そうなんだ。心の持ち方なんだよねー。。


そして場合によっては綱渡りの話になるだろう。

風が吹いたらとてもじゃないけど、、
なんていう会話にもなる。

そこで思考停止状態だ。

でも決してそうじゃない。

10cmの高さでも渡ることが難しい綱を渡る話ではない。

普通では簡単なことが、恐怖や不安にさらされることで普段できることが出来なくなるという人間の心理的なパターンのことをいっているのだ。


武蔵はそれをサラッと修行が足らないからだ。本心をしっかり定めることが大切だ、、と、簡単に説いている。

では修行とはどんな修行なのだ?

本心ってなに?!

という問いが出てくる。


実際、目も眩む高い位置にある三尺の幅の板の上を歩くのに、落ちないようにと自分に強く言い聞かせることのほうが、より落ちる結果を生む。

なぜならその思考の元が、不安や恐怖から起きているからだ。

少なくとも、恐怖や不安を客観的にみとめることが必要だ。

決してそれらに巻き込まれるのではなく、
あくまで、受け入れるように冷静に観るのだ。

先ぼどのすれ違う自転車のように、このようなことは日常でたくさん存在する。

そういうことを認識して、とことん考え尽くす。

その解決のわかりやすいヒントの1つが、
中心帰納の稽古だ。

ここの合気道はその種の稽古をする。

この切り口で型稽古をする。

ただ、タイミング、スピード、力など方法論に重点を置く稽古だけではおそらく武蔵がいう修行にはならない。

その意味が分からなければ、中心帰納の会得は難しい。

2016年10月 3日 (月)

気づきという傲慢な表現


矛盾があるから発展がある。
矛盾にはそれなりの理由があるのだ。

それに向き合うひとと、
目を背けるひとがいる。

矛盾のある環境は、軋むのでそこで平常に保つにはより多くのエネルギーがいる。

いや、違う。

矛盾の場にその度合いに応じたエネルギーがあるのだ。

そのエネルギーを使わない手はない。

矛盾があるから、気づきがあるのだ。

しかし、そういう気づきとかいう言い方は、ずいぶん傲慢な言い方かもしれない。

意識的であることが、有益であるかのようだ。

本来無意識を信頼して、無意識の中にいれば、わざわざそんな思考を巡らさらなくてもいいのかもしれない。

それはもう、一種のクセなのだから、

仕方なく、矛盾に悩み、それに向き合う努力をして、なかなか進まない1つ上のステージに上がれるよう努めたい。

2016年9月25日 (日)

大腰筋痛?に中心帰納


やっと舌の口内炎が治りました。
いつも、こういう炎症系というか、
痛み系というか、その手のものに罹ったとき、治り曲線を自分なりに時間の経過に沿って観ていると、炎症度がピークになった次の瞬間、微かに、ほんの微かに緩んだな感じるや否や急激に良くなる。あれだけ何日も苦しんだのに、本当にそう感じて数時間で劇的に。なんか不思議です。

今回口内炎で苦しんでいる間、もう1つ痛みが現れました。
左下腹部の違和感と、下腹部の内臓の鈍痛と、その合間に現れるチクチクするという矛盾した痛み、、、
あー、遂に僕も内臓疾患か?!
前立腺炎の仲間入り?
と覚悟しました。
下腹部に手を押し込んで内臓を触ってみると、何か硬いものがある。そしてそこから肋骨までその硬いものがあり、特におへその横辺りが硬かったのでそのまま体をくの字に曲げて、強く押してみた。そうするといつものクセで、そのタイミングで中心帰納をしたとき、その硬かったものが溶ける感じ。。
その後下腹部の鈍痛とチクチク痛が、まったく無くなった。よくよく考えればそこは大腰筋だ。その大腰筋が、緊張か拘縮かしていたのだ。大腰筋が原因で腰痛が起こることは知っていたが、こんな内臓の痛みのような感じにもなるとは、想像外だった。
でも、いい勉強になった。
そして、クラニオバイオの時にも自然にやって効果があった中心帰納が、自分の時にも効果があるということも改めて痛感した。

つくづく中心帰納、、つまりはニュートラル感は潜在的な能力というか、その時の最善の状態を喚起させる。


間違いない。

2016年9月24日 (土)

今後の稽古のお知らせの方法と、口内炎の考察


今後稽古の日時のことは、ホームページに任せることにしようと考えてます。

基本は、
木曜の20時から22時
日曜の13時から16時
場所は新宿スポーツセンターの3階

である事は同じです。


ご了承お願いします。

さて、

舌先の口内炎で、まったく食べる事ができず、2日間ほとんど絶食状態だった。

いまも、完全に回復したわけではない。

こうなったのも、早食いのせいだ。
舌をガリっとやってしまった。
いつも娘に、何をそんなに急いでいるのか
といつも注意される。

冗談で、早メシ早グソは芸のうちだと
誰かに教わったフレーズをとなえていた。

そういう行動の背景には、きっとなにか渦巻いたた感情があるに違いない、、なんて考える事なんて一切できない。

なぜなら、もう無意識に丼物、熱々ご飯に合うもの、、は、口の中に掻きこんている。

漫画のオバケのQ太郎や、伊賀のカバ丸などの、ごはんつぶを飛ばしながら食べる絵に洗脳されている。

そうすることで、旨さが倍増すると思い込んでいる。

あと、ウガンダのカレーは飲み物だといったテレビもリアルタイムで見ている世代でもある。

でも、きっと年のせいだろう早食いに舌や口の動きが、ついていけなくなってきたのかもしれない。

もうこの痛さはコリゴリだ。

何とかして、このクセを直さなければいけない。


おそらく、こういうことが合気道の技の中にもちょっとづつ現れているにちがいない。

2016年9月22日 (木)

口内炎で苦しむ。そして今日の稽古は、、、


昨日から、舌先にできた口内炎で苦しんでいる。たべているときにガリっとやってしまった。今は話す事もまともに出来ない状況だ。

たった2ミリくらいの白い点が舌先にできただけで、こんなに調子が悪くなるなんて、、
まったく弱いものだ。

他の用事も相まって、当日まではっきりしませんでしたが、今日の新宿スポーツセンターでの稽古は無しとします。


今日は合間をみて、只管体捌きをしようとお 考えてます。


少し前から、
何か気づきが降りてきそうな気配を感じつつ、それをジックリ模索したいと思います。

2016年9月21日 (水)

稽古するしかない 木曜の稽古おしらせ。


まずは、稽古の考え方だ。
稽古の2時間、3時間だけが、その時間だと考えればそれだけだし、
日々の一挙手一投足に稽古のエッセンスを入れていけば起きている時間は、すべて稽古となる。

ある程度到達すれば、また次に遠くに見えてくる微かな光も見えてくる。

そこを目指して、またあーでもない、こーでもないと、試行錯誤を繰り返す。

人によって多少プロセスは違うが、だいだい
同じような段階を踏む。

しかしながら、
学習曲線は人によって違う。

一気にある段階に行くひともいれば、
最初停滞が長くても、あとでグッと伸びる人もいる。

昔、先生から、今やっている稽古の解釈が1度でも違うと時間が経つ程に目標との距離が
広くなる。。と言われた。

それが同じ稽古をしていてもだ。

ひとはそれぞれ、同じ時間、同じ場所、同じ物を見ていても、それぞれその人達の解釈で全く違うものになりうる。

つまり、その人達の体験、経験によって、
培った"思い込み"がそうさせる。

思い込みとは、心理学の言葉に変えれば、
"投影"のことだ。

投影は無意識に起こる。

だから、本人がズレていっていることが
わからない。

それをわかるために、稽古するのだ。

稽古のなかで、出来ない自分と向き合うのだ。

ズレた角度を修正する。

稽古で上手くいかず、悩む。

当たり前のことだ。

悩むことが大切なことなのだ。

1年も経てば、最初出来なかったことが、
出来る頻度が上がってくる。

でも、また、次の課題が浮き上がってくる。

また、それで悩む。

おそらくそれの連続だ。

成田先生ですら、未だにそうだとおっしゃていた。

そして、平井先生の言葉を書き留めた大量のメモを読み返してらっしゃるという。

それは、初心に戻るためなのだ。

ちなみに、ぼくは、いただいたその平井先生の書き留めた秘伝書に驚くほど共通する、クラニオバイオというセラピーのエッセンスを、重ねて自分なりにまとめたりしている。

わからなくなったり、悩んだりすると、
スーバーバイズしてもらったりもする。

そして、行き着くところ、

こころの問題、、ということになる。

どれだけ頭で理解しても、

相手との一瞬のやり取りのなかで、

辻褄を合わすようにいつもの癖に戻る。


それは、まさに、無意識も含めた

こころの問題、

つまり、やはり、

自分の問題なのだ。


おそらく、ここの合気道の本質は、

相手との相対的な関係性のなかで

現れる現象を、客観的にみて、表現することなのだ。

それを考えていくと、

禅などの境地や、悟りをどれだけ達しても、ダメだとうことがわかる。

なぜなら、肉体があるからだ。

つまり、精神を極めても、絶対化しても
絶対化できない肉体がある限り、
そこで制限される。

でも、肉体が無いと精神は成立しない。

そこにジレンマがあり、矛盾がある。

だから、そういう状態を理解しなければならない。

そこを理解して、忠実に一瞬一瞬起こる現実だけを見ていく。

その時に、武道的に有利に働く考え方と
体の動かし方を稽古のなかで体得していく。

普段、幻想の中で生活している行動を、現実に、呼び戻すのだ。

その時に、中心帰納とか、腰回しという方便を使う。

その方便自体も実は幻想だということも、
わかってくる。

その幻想が、最初に言った"思い込み"であり、"投影"なのだ。

はーっ、やっと一周した。


そしてそこで、

現代の格闘技、武道は、
共依存的な殴り合い、技の掛け合いを
しているということが見えてくるはずだ。


そこがわかって、こっち側の
稽古を続けるのだ。


さて、木曜の稽古は、

まだ、時間と場所が未定です。

昼に開催する可能性もあります。

決まり次第このブログでお連絡いたします。

2016年9月17日 (土)

発達障害と合気道


先日、NHKで発達障害のひとの就労について
の放送があった。

自閉症スペクトラム障害、注意欠如多動性障害、学習障害、、、

こだわりが強い、コミュニケーションをとるのが苦手などの特性がある自閉症スペクトラム障害

不注意でのミスが多く、集中することが苦手な注意欠如・多動性障害(ADD/ADHD)

そして読む・書く・計算など特定の学習が極端に困難な学習障害(LD)

この3つ障害を持つ人は、仕事に関してなんらかのトラブルを起こし、自分でストレスを抱え、仕事を辞めてしまう。繊細なひとは精神的に病んでしまうという。

例えば、仕事の優先順位ができないということがあるようだ。人に依頼をする時相手によっては、いろいろな反応をする人がいて依頼することを躊躇してしまうとか、そういうことが積み重なって仕事ができなくなる、、

しかし、よくよく吟味していくと、この様なことはよくあることだ。自分にも当てはまることも多々ある。

度合いによっては個性だと言ってもいいくらい。

さしずめ僕なんかは、軽い注意欠如多動性障害のようなものだ。

すかーっと忘れる。

結構重要なことでも、すかーっと。

重要なことなので、当然それに携わる人は結構憤慨している。

そういえば、会社のあのひとは少し、自閉症スペクトラムな感じがする。。とか当てはめていくと結構それっぽい人は沢山いる。

そういう自分の質を理解せず、他責に振る舞う人は、周りにとってえらい迷惑な人になる。

逆に自分のその質をこれまたある種理解せず、自責に向かう人は、混乱し、文字通り自分を責め衰弱する。

どにらにしても、まずは真の自分を受け入れる必要がある。

真の自分を見るためには、客観的に自分を見る必要がある。

みんな結構思い込みで自分をイメージしている。

たとえば、
学校の成績が良い人は自分は将来会社に就職しても
優秀さを維持できると思っている。

でも会社に勤め始めると、同時にざまざまな質の仕事を任される。学校の勉強と違う能力が必要となる。

自分の中でギャップが生まれる。

そのギャップを受け入れなければいけない。
頭の中で、スーパーエゴはギャップを埋めるよう頑張れという。

でも現実はそのギャップは大きく、
決して埋まらない。

では、どうするのか、、

認めるのだ。
自分にはその能力は無いと。


早い話が、諦めるのだ。

言葉を変えるとこうも言える。

自分で自分を許す。

そうすると、一瞬で楽になる。


これまた、よくよく考えると、

合気道の中の稽古で展開している思考パターンだ。

これは、決して自分を言いくるめているのでは無い。

神聖なる現実を受け入れる作業なのだ。


瞑想や禅などで、禅病など調子が悪くなる人は
もともと少し発達障害気味で、このギャップを
認めることが出来なかったからか、もしくは受け入れるためのプロセスなのではないかと勝手に
考えてしまう。

なぜなら、自閉症スペクトラムの次の段階は、うつ病や、統合失調症など、まさに精神疾患になる可能性もあるということだからだ。


まとめると、


ここの合気道でやる中心帰納は、

相手の攻撃を受け入れることでもあり、
そういう自分も認めて受け入れる、、

そういう作業も含めて成し得ることなのだ。

発達障害気味の人には

良い稽古になる。

«細かいことは瑣末なこと。そして日曜日18日の稽古のお知らせ。